ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」 ~4部作「ニーベルングの指環」序夜~ 名盤
リヒャルト・ワーグナーの長大なオペラ作品である楽劇「ニーベルングの指環」は、ワーグナーが35歳から61歳まで26年もの年月をかけて作曲しました。演奏の時間は正味で約15時間に及び、それが4日間に渡って上演されるという空前絶後の作品です。
4日間の内訳は、序夜「ラインの黄金」、第1日「ワルキューレ」、第2日「ジークフリート」、第3日「神々の黄昏」です。演奏するオーケストラも大きく、100名以上の編成となります。
物語は叙事詩で、世界の支配者と成れる魔法の指環をめぐって、神様、英雄、神話上の生き物たちの争いが、神々の世界、地上の世界、ライン河の水底、地下のニーベルング族の住むニーベルハイムなどで三世代にわたって繰り広げられ、最後には神々の城が炎上して灰となり、そこに真の愛が蘇るという気の遠くなるようなスケールの内容です。ワーグナーは台本から先に創作を始めましたが、書いた順番は「神々の黄昏」「ジークフリート」「ワルキューレ」「ラインの黄金」で、つまり後ろから前へ遡ります。
序夜「ラインの黄金」は、ワーグナーがテキストを1853年に書き上げると直ぐに作曲に取り掛かり、翌年にはスコアを完成させました。ワーグナーは4部作の全てが完成するまでは舞台上演をしようとしませんでしたが、パトロンのバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、完成したものから上演するようにと命じたことから、1869年に「ラインの黄金」のみを宮廷歌劇場でフランツ・ヴュルナーの指揮で初演しました。
<序夜>だけあって、1幕4場のみで、4作の中では最も短いですが、それでも上演には2時間半以上を要します。内容的にも以降の3作と比べれば薄いですが、どうしてどうして単独で鑑賞しても充分楽しめる作品です。
<主な登場人物>
ラインの乙女たち(ヴェルグンデ、ヴォークリンデ、フロスヒルデ) :ラインの黄金を守る。
アルベリヒ:ニーベルング族の長。
ヴォータン:神々の長。
フリッカ : ヴォータンの妻。
フライア : 女神。フリッカの妹。
エルダ:知の神。
ローゲ : 火の神。悪智恵を働かせる。
ファーゾルト : 巨人の兄。
ファーフナー : 巨人の弟。
ミーメ : アルベリヒの弟。
<物語の概要>
第1場 ライン河の水底
ライン川の水底を三人のラインの乙女が泳いでいる。そこへニーベルング族のアルベリヒが現われて、ラインの乙女たちに言い寄るが、乙女たちは彼をあざ笑う。憤るアルベリヒは河の底に眠る黄金を見つけるが、ラインの乙女たちから「愛を断念する者だけが黄金を手にし、世界を支配する力を持つ指環を造ることが出来る」と聞かされる。アルベリヒは、愛の禁欲ぐらいなら出来ると黄金を奪い去る。
第2場 広々とした山の高み
神々の長ヴォータンは巨人族の兄弟ファーゾルトとファーフナーにライン河畔の山上にヴァルハラ城を造らせた。兄弟への報酬として女神フライアを与えるという契約になっていたが、その約束を果たすつもりのないヴォータンは、この契約を勧めた火の神ローゲに事の収拾を図らせようとする。
ローゲはニーベルング族のアルベリヒがラインの黄金を奪い去ったことを話すと、ニーベルング族と確執のある巨人たちは黄金をフライアの代わりの報酬にしろと言い出し、フライアを人質にして連れ去ってしまう。ヴォータンは、ラインの黄金を手に入れるためにローゲを伴って地底に降りてゆく。
第3場 地底のニーベルハイム
アルベリヒはラインの黄金から鍛えた指環を造り、その力でニーベルング族の支配者となっていた。弟のミーメには密かに魔法の隠れ頭巾を作らせ、それを奪い取り我がものにした。
ヴォータンとローゲは嘆くミーメから事情を聞き出す。そこへ現われたアルベリヒはヴォータンとローゲを警戒するが、次第にローゲの口車に乗せられ、隠れ頭巾を使って大蛇に化ける。小さいものにも変身できるかと問われ、カエルになってみせたところを捕らえられてしまう。ヴォータンとローゲはアルベリヒを縛り上げて地上に連れ行く。
第4場 再び第2場の山の上
アルベリヒは仕方なく集めた黄金をヴォータンに差し出すが、魔法の隠れ頭巾とラインの黄金を鍛えた指環も取り上げられてしまう。ようやく自由の身となるが、指環に死の呪いをかけて去る。
巨人族の兄弟がフライアを連れて現れ、フライアの身の丈の黄金財宝を要求する。隠れ頭巾を差し出してもまだ足らず、巨人たちはヴォータンの指環を要求する。ヴォータンはこれを断固拒絶するが、岩の裂け目から登場したエルダがヴォータンに、呪いを避けて指環を手放すよう警告し、世界の終末が迫っていると告げるとヴォータンはようやく指環を巨人たちに渡し、フライアは解放される。
黄金を手に入れた巨人の兄弟は、その取り分をめぐって争い始め、弟のファーフナーは兄のファーゾルトを棍棒で打ち殺す。
雷神ドンナーがハンマーを振るって雲を呼び集め、神々の城に虹の橋が架かると、ヴォータンは城に「ヴァルハラ」と名付け、橋を渡って神々は入城するが、ライン河からは黄金を奪われた乙女の嘆きが聞こえてくる。
それでは所有するCDの紹介ですが、実際はほとんど4作まとめての全曲盤です。かつてのLP盤時代ならいざしらず、CD以降の時代では全曲盤が普通となりましたし、購入もし易いです。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1950年録音/ Gebhardt盤)
第二次大戦後、ナチ疑惑が晴れて楽壇復帰したフルトヴェングラーに対してミラノ・スカラ座はドイツ・オペラの指揮を打診します。それを受けたフルトヴェングラーは、「指輪」全幕を当時の層々たるワーグナー歌手を集めて上演しました。その演奏はイタリア放送によるモノラル音源をもとにこれまで様々なレーベルからリリースされましたが、現在入手可能なのはキングレコードが伊チェトラ社から取り寄せた初期アナログテープを基にリマスター復刻したものです。高価なので自分はハイライト盤しか持っていません。全曲盤の所有はGebhard盤です。GebhardはARCHIPELやWALHALLレーベルを傘下に持つドイツの新興レーベルで、復刻盤を主とします。ただしキング盤と比べても更に音が貧しく、テープの揺れも所々に有ります。どちらにしてもワーグナーの管弦楽を楽しむには全く物足りません。オーケストラも第一場までは調子が出ておらず、金管などは情けない音を随分と出しています。ところが、音楽が進むにつれてオーケストラも調子を上げて、極めてドラマティックとなります。歌手陣も表現力豊かな歌手が揃っていて素晴らしいです。全体がオペラハウスの雰囲気に溢れているのが魅力です。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮イタリア放送交響楽団(1953年録音/EMI盤)
ミラノ公演から3年後の1953年にローマで行われた演奏会形式の公演で、ラジオ放送されたモノラル音源です。ファンの間では「ミラノ・リング」に対して「ローマ・リング」と呼ばれます。この録音はEMIとの間でレコード化の話が有ったものの、EMIのレッグが、フルトヴェングラーの「指環」はウィーン・フィルとのセッション録音を考えていたことから、契約が延び延びとなり、しびれを切らせたイタリア放送局がオリジナルテープを消してしまったそうです。フルトヴェングラーは結局「ワルキューレ」のセッション録音を残したのみで他界してしまいました。時すでに遅し、EMIは「ローマ・リング」をアセテート盤から起こしたテープで復刻したそうです。それでも高中低音域のバランスが良く、個人的には「ミラノ・リング」よりも聴き易いです。演奏会形式であった利点も有り、前奏曲からして金管のハーモニーが「ミラノ・リング」よりも美しく神秘感が出ています。確かに「ミラノ・リング」は劇的で興奮を誘い、よりフルトヴェングラーらしいかもしれませんが、余りに人間的で、ワーグナーの音楽の神々しさにおいては「ローマ・リング」が上と考えます。もちろん劇的さも不足はしません。管弦楽に関してもイタリア放送響は、スカラ座管よりもドイツの響きに近く感じられます。歌手はヴォータンのフランツは重厚で立派ですし、他の歌手も実力派が勢揃いしていて、ミラノよりもじっくりとした歌唱ぶりが好ましいです。
クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭劇場管(1953年録音/オルフェオ盤)
1951年に戦後のバイロイトが再開されてから1959年を除いて毎年「指環」が上演されましたが、1953年にはクラウスが指揮台に立ちました。ところが、クラウスは翌年5月に急死してしまう為にバイロイトへの登場は一年だけ、しかも「指環」は第2チクルスの1回だけで終わったことから、このライブ録音は大変貴重となりました。クラウスの指揮は、全体は速めのテンポでサクサクと進み、躍動する生命力で一杯です。当時のクナッパーツブッシュやカイルベルトの重厚なゲルマン的な演奏とは異なり、リヒャルト・シュトラウス風のワーグナーだと言えます。あるいは後年のベームの先取りかもしれません。クラウスは旋律をしなやかに歌わせますが、要所でテンポを動かして劇的さにも決して不足はしません。歌手陣に関してこの年は最高だと良く言われますが全く異論はなく、特にヴォータンのハンス・ホッターが全盛期の凄さですし、アルベリヒのナイトリンガーももちろん最高で、この二人が対峙する緊迫感溢れるかけ合いには思わず唸らされます。そのほかの歌手陣にも全く疵が無く本当に素晴らしいです。この音源は、バイエルン放送協会のマスターを使用とのことで、モノラル録音ながらかなり明瞭な音質です。これまでに様々なレーベルからも復刻されていて、よく「管弦楽の音が引っ込んでいる」という評も見受けますが、当時のバイロイト録音としては普通の聞こえ方だと思います。フルトヴェングラーの2種の盤もこれぐらいの音なら良かったのですが。
ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイロイト祝祭劇場管(1955年録音/テスタメント盤)
何とこの年のバイロイトでは、世界初の「指環」の全編ステレオ録音がデッカのチームにより行われました。それはショルティ盤に先駆けてのことです。当時はまだステレオ録音の最初期の時代で、ライヴ収録の「指環」など奇跡の記録だと言えます。なお、これは公演の2チクルスとも録音したうち、1回目のチクルス本番、リハーサル、ゲネラルプローベのテープを編集して完成されました。しかし、このプロジェクトを途中から引き継いだプロデューサーのジョン・カルショーはライヴ録音が嫌いで、既に「指環」のセッション録音計画が有ったことから、この「バイロイト・リング」はお蔵入りと成ってしまい、それから半世紀の時を経てようやく英テスタメントの英断によりリリースされました。最新のデジタル録音と比べて音響学的にはひけをとるかもしれませんが、音そのものは明瞭ですし、アナログ的な高音の柔らかさ、管弦楽の中低域の音の厚み、自然な広がりなどが大変素晴らしいです。放送局の一発録りの音源では無いので演奏の疵も最小で気に成りません。特筆すべきはカイルベルトの堂々たる指揮ぶりで、真のドイツのカペルマイスターとしての実力を遺憾なく発揮しています。要所での劇的な迫力も凄いです。歌手陣については53年のクラウス盤と同じヴォータンのハンス・ホッター、アルベリヒのナイトリンガーという最強の二人ですし、その他の歌手もそれに匹敵する充実ぶりです。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭劇場管(1956年録音/オルフェオ盤)
クナッパーツブッシュはバイロイトで「指環」を1951,56,57,58年と指揮しました。そのうち正規盤が出ているのは56年のみで、このオルフェオがバイエルン放送協会の音源からリマスターしたディスクです。この年もヴォータンのハンス・ホッター、アルベリッヒのナイトリンガーという最強の二人を始めとして、層々たるワーグナー歌手が名前を連ねます。しかし、何と言ってもクナッパーツブッシュのスケール雄大にして、聴く進むうちにじわりじわりと劇的なドラマを盛り上げてゆく神業の指揮ぶりが圧巻で、場面転換の際の音楽の凄さなどは物理的な音響の範囲を超えて身に迫り来ます。やはり最高のワーグナー指揮者はクナを置いては居ないとつくづく思われます。もともと後期ロマン派のワーグナーやマーラーの音楽には、何か絶滅寸前に余りに巨大化し過ぎた恐竜のようなイメージを持つのですが、クナの演奏にもそれと同じような巨大さを感じるのです。モノラル録音ですが、音質は53年のクラウス盤を上回り、この凄い演奏の鑑賞に充分に耐えます。もしもこれが前年のカイルベルト盤のような明晰なステレオ録音で残されていたらと、贅沢な想いを巡らせたりもしますが、まずはこの正規録音に感謝して拝聴したいです。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭劇場管(1957年録音/ WALHALL盤)
クナッパーツブッシュのバイロイトの「指環」全曲の正規盤としてはオルフェオの56年盤のみですが、57、58年の録音がMelodramやWALHALLなどから出ていました。57年盤はキングレコードからも出ていますが高価なので、自分が所有しているのはWALHALL盤です。それでも非正規盤でモノラル録音ながら音質はかなり優れていて、56年のオルフェオ盤がオフマイク気味で全体が綺麗にまとまって聞こえるのに対して、こちらはオンマイク的で、分離が良く細部が明瞭なので、音に生々しさが増しています。もっとも、その分、演奏の疵はそのまま聞えてしまいます。冒頭のライン河の音楽が開始されても、聴衆の派手な咳の音がしばらく聞こえるのも苦痛です。オーケストラは最初のうち集中力にやや欠けていますが、徐々に調子が出てくると、クナッパーツブッシュの巨大なワーグナーの世界と化してしまいます。第一場の終盤以降はドラマティックさにおいて56年を上回るように思います。歌手陣は、この年もヴォータンのハンス・ホッター、アルベリのナイトリンガーの二人を始めとして、前年とほぼ同じ層々たるワーグナー歌い手達が揃っているので、その点でもドラマの白熱に大きく貢献しています。56年盤とは一長一短ですが、どちらかと言えばやはり録音が上回る57年盤を上位に置きたいところではあります。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭劇場管(1958年録音/GOLDEN Melodram盤)
クナッパーツブッシュの最後の「バイロイト・リング」となる58年の録音はMelodramやWALHALLなどから出されていました。自分が全曲盤で所有しているのはMelodram盤ですが、これは非正規盤でモノラル録音ながら音質が滅法優れています。57年盤もクナのワーグナーにどっぷりと浸れる優れた録音でしたが、この58年の録音は更に飛躍的に音質が向上しています。オーケストラも歌手達の歌声もどちらも極めて明晰でクリアであり、重低音域に支えられた音場には奥行きや広がりが感じられるために、ステレオ録音かと錯覚してしまいそうです。55年のカイルベルト盤と比べても、さほど遜色の無い音だと言っても決してオーバーではありません。むしろヒスノイズなど少ないほどです。舞台装置の音や客席の音はもちろん有りますが、実演の臨場感を感じる程度で、ほとんど気に成らないのも大きな利点です。歌手はヴォータンのホッターは不動ですが、アルベリヒがナイトリンガーからアンダーソンに代わりました。それ以外は前年、前々年に引けを取らない素晴らしい歌手達が揃っています。それでもなお、この演奏の持つ巨大なスケールの凄さは兎にも角にもクナに尽きます。57年ではオーケストラの特に金管のハーモニーがいま一つでしたが、奏者が入れ替わったのか、58年では見事に改善されています。三年目の公演となりアンサンブルも完成度が非常に高まっています。因みに「ラインの黄金」はWALHALL盤でも所有していますが、中低音域に差は感じられず、高域のきめ細やかさと広がりはMelodram盤が上のような気はしますが、その差はごく僅かです。入手チャンスが有ればどちらでも迷う必要は有りません。
ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー(1958年録音/デッカ盤)
恐らくはレコード史上最も有名な「指環」です。デッカの名うてのプロデューサー、ジョン・カルショーが、会社の総力を上げて8年を費やして完成させた最初のセッション録音による「指環」でした。第一弾となった「ラインの黄金」は1958年録音と古いにもかかわらず、デッカのアナログ録音は、60年以上経った今でも美しく迫力ある音を充分に楽しませてくれます。またセッション録音の利点で、ウィーン・フィルも歌手達も疵の無い極めて完成度の高い演奏を行っています。一方で音響技術を駆使した効果音や音の編集が少なからず行われていることで、歌劇場の実演とは異なる不自然な印象を与えてはいます。部分部分だけを聴けば、物凄い迫力ですが、それらを個々につなぎ合わせるために、生の舞台でこそ生まれる自然な感興の流れは失われています。むろん、それはこの録音に限ったことでは無いのですが、それらを好むか好まないかは聴き手の感じ方次第でしょう。この「指環」の評価はそこが分かれ目です。つまり、オーディオマニアの人には最高ですが、生の舞台好きの人には不向きだと思います。ショルティの指揮はディナーミクが極めて明快で、含蓄こそ有りませんが、カルショーの意図には最適でしょう。歌手についてはヴォータンがホッターではなくジョージ・ロンドンで、フリッカをフラグスタートが演じています。二人の掛合いではフリッカの方がずっと強そうです(笑)。アルベリヒは不動のナイトリンガーです。その他の歌手もベテラン中心に手堅く揃えられています。
ルドルフ・ケンペ指揮バイロイト祝祭劇場管(1961年録音/オルフェオ盤)
戦後バイロイトの「指環」は、1958年までヴィーラント・ワーグナーの演出により上演されて来ましたが、ヴィーラントの弟のヴォルフガンク・ワーグナーも演出に加わり、1960年には新演出の「指環」上演を行いました。指揮を任されたのはケンペで、63年まで4年間担当します。これはその二年目の1961年のライブ録音です。ケンペはそれ以前にもコヴェントガーデンで「指環」を指揮していますし、ドイツ職人らしくきっちりとまとめ上げています。スケールも小さいということは無いのですが、何しろその前の1950年代のクナッパーツブッシュやカイルベルトら巨峰が連なるような指揮者達と比べてしまうと、どうしてもスケール感に物足りなさが感じられてしまいます。それでも2場以降の劇的部分での熱を帯びた掛合いなど流石はケンペです。歌手陣については、ヴォータンが米国のジェローム・ハインズ、アルベリヒがオタカール・クラウスとなり、全体的にそれ以前のメンバーから新世代の歌手達に大きく入れ替わっています。やや小粒化した印象は有りますが、特に文句は有りません。音源はバイエルン放送協会のマスターが使われていますが、モノラル録音なのが惜しまれます。音質は年代的には優れていて、音域のバランスも良いのですが、55年のカイルベルト盤や58年のクナ盤が余りに明晰なだけに、やや聴き劣りして感じられるのは不運です。
カール・ベーム指揮バイロイト祝祭劇場管(1966年録音/フィリップス盤)
昔、自分が学生だった頃には「指環」の全曲盤と言えばショルティとベームでした。ショルティはウィーン・フィルのセッション録音、ベームはバイロイトのライヴと対照的で、好みを分けたものです。ベームは1965年から67年までの三年間続けてバイロイトで「指環」を振りましたが、全曲盤は66年と67年に録音されました。当時のバイロイトでは『次の演奏会場へ行くのを急いでいるような演奏だ』と評されもしました。要はテンポが速過ぎるという皮肉です。確かにあのクナッパーツブッシュの巨大な演奏と比べれば、バイロイト常連の聴衆にはそう感じられたかもしれません。しかし今改めて聴いてみれば、凄まじい緊張感に溢れ、管弦楽の音の凄味と劇的な迫力は、バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」や「さまよえるオランダ人」と同様にベームのワーグナーならではです。この凝縮された響きによる演奏とクナに代表される広がりの有る響きのどちらがワーグナーらしいかと聞かれたら、たぶん後者と答えます。しかしこの長い長いオペラを手に汗握り一気に聴かせてしまう点ではベーム以上の指揮者は居ないかもしれません。歌手については、ヴォータンはテオ・アダムで声が軽いですが健闘、アルベリヒは不動のナイトリンガーです。ローゲのヴィントガッセンは魅力ですし、“狂気のミーメ”の異名を取ったヴォールファールトは最高に楽しいです。その他の歌手ものちに新時代のワーグナー歌いとして名を馳せる面々が揃っていますので不満は有りません。録音は60年代初頭から何度もバイロイトで名ステレオ録音を残してきたフィリップスなので素晴らしいです。このレコードが発売されたときにNHKがFMで全曲を放送したのをラジオにかじりついて聴いた青春の日々を思い出します。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー(1967年録音/グラモフォン盤)
カラヤンの「指環」全曲は1966年から1970年にかけて録音されました。LP盤が順に単売されて、当時の自分は「ワルキューレ」と「ジークフリート」のみ購入しました。カラヤンの指輪で良く言われるのは『室内楽的で精緻な演奏』でしょうか。確かにベルリン・フィルにオペラを演奏させると、どのような作品でもそう成ります。セッション録音の利点を生かしているのはショルティ盤と同じですが、カラヤンはあくまでも演奏そのものを重厚長大な前時代のワーグナーから新時代のワーグナーへと見事に生まれ変わらせています。劇場では聴けないような細かく雄弁な演奏は世界屈指の楽団を録音スタジオ(実際は教会ですが)に閉じ込めて初めて実現可能と成ります。もちろん精緻で美しいだけではなく、要所では凄い迫力でバリバリと鳴り響きますが、音色はかなり明るく、ゲルマン的な暗い響きからは遠く感じられ、なんだかリヒャルト・シュトラウスみたいです。歌手については、カラヤンのコンセプトに適した歌手が揃えられていて、アンサンブルは優秀、演劇的な雰囲気も出ています。但し問題はF.=ディースカウのヴォータンです。あの声と歌い方がどうも“神々の長“には聞こえません。元々歌手にはそれほどうるさく無い自分ですが、これだけは致命的な程に抵抗が有ります。
ピエール・ブーレーズ指揮バイロイト祝祭劇場管(1980年録音/フィリップス盤)
「指環」のバイロイト初演100周年記念となった1976年の舞台演出を任されたのは、演劇界で活躍していた30歳を過ぎたばかりの若手演出家パトリス・シェロー、指揮者にはピエール・ブーレーズという、斬新なフランス人コンビによる公演となりました。設定を産業革命の時代に置くなど、聴衆に驚きを与えて賛否両論でしたが、毎年の公演を重ねるうちに評価がすっかり固まりました。全曲のCDは1979年と1980年の収録です。この年代となるとバイロイトの録音も非常に安定して、フィリップスの音造りは柔らかく、自然な臨場感に溢れる優秀録音です。ブーレーズの指揮もかなり速いテンポで、かつてのゲルマン的な重量級の厚い音から、地中海的な透明感のある音に様変わりさせています。慣れないうちは物足りなさを感じないでも有りませんが、この長大な作品を聴き通すのにはむしろ丁度良いかもしれません。ですが、何と言っても公演のライブ収録ですので、生の劇場的な息づかいがひしひしと感じられ、セッション録音盤とはやはり違います。場面が進むうちにどんどんと感興が増してゆき、要所での雄弁さや緊迫感と迫力の有る盛り上がりが素晴らしいです。歌手ではアルベリヒのヘルマン・ベヒトが歌手としてはともかくも役者不足の感が有りますが、ヴォータンのマッキンタイア、フリッカのハンナ・シュヴァルツは共に好演していますし、ミーメのハンプーフその他の配役も上演コンセプトに適したメンバーで充実しています。
マレク・ヤノフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1980年録音/RCA盤)
これはDENON、西独オイロディスク、東独シャルプラッテンの共同制作によるプロジェクトで、第二次大戦からのゼンパー・オパー再建落成記念の「指環」上演プロジェクトの際の録音です。ドレスデンのルカ教会における入念なセッション録音で、何と言ってもシュターツカペレ・ドレスデンの演奏というのが肝です。指揮者のヤノフスキはワルシャワ出身ですが、幼少からドイツに移住して音楽を学びましたので、ドイツの指揮者と言えます。歌劇場でたたき上げられてオペラを得意とすることから、この「指環」の指揮者として白羽の矢が立てられたのでしょう。それにしてもドレスデンとバイロイトの音は随分と異なる印象です。古雅で素朴なドレスデンサウンドは、「マイスタージンガー」には最適だと思うのですが、「指環」には響きが柔らか過ぎるかもしれません。もちろんこれは聴き手の好みにも寄ります。ヤノフスキの指揮は地味ながらも、要所を締めた堅実さが光ります。歌手陣はヴォータンのテオ・アダムをはじめとした東独陣が中心で、フリッカをオーストラリアのイヴォンヌ・ミントンが歌ったりもしていますが、全体的にバイロイト常連のワーグナー歌手達よりも、穏やかさが感じられます。ローゲのペーター・シュライヤーやラインの乙女のルチア・ポップが好例です。歌の掛合い部分が、時々「さまよえるオランダ人」や「マイスタージンガー」に聞こえるのは面白いです。
ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管(1988年録音/グラモフォン盤)
レヴァインは1987から89年にかけて全曲をマンハッタンセンターでセッション録音しましたが、もちろんDVD化された歌劇場での映像とは別演奏です。聴いて、まず感じるのが、さすがは世界に誇るオペラハウスだけあってオーケストラが非常に優秀で、最近のバイロイトの演奏と比べても遜色が有りません。グラモフォンによる入念なセッション録音なので完成度は抜群、音質も優秀です。レヴァインの指揮は基本のテンポが比較的ゆったりしていますが、元々オペラを得意とするだけに生の舞台の息づかいや雰囲気が失われていません。もっともそれはプロデューサーのコンセプトかもしれませんが。DVD版では絵本そのもののような極めてオーソドックスな舞台演出が案外気に入っていますが、どうしても映像に気を取られてしまう為に、CDで聴くと演奏の素晴らしさに改めて気付かされます。ただし演奏のスタイルはベームのように熱く燃え上がるタイプではなく、限りなく広がりの有るクナッパーツブッシュのタイプです。歌手はヴォータンのジェイムズ・モリス、フリッカのクリスタ・ルートヴィッヒ、アルベリッヒのエッケハルト・ヴラシハを始めとした実力者が揃っていて特に不満は有りません。この演奏はバイロイト信奉者の聴き手にも是非とも聴いて頂きたい名盤です。
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管(1989年録音/EMI盤)
これはミュンヘンのバイエルン歌劇場にNHKが乗り込んで収録した映像と録音でした。当時NHKのBSで放送されたのを真剣に観たものです。自分はバイロイトには行ったことが有りませんが、この劇場もワーグナーの第二の聖地とも呼べるもので、ここで「神々の黄昏」を観たことが有ります。そして「ラインの黄金」「ワルキューレ」はこの劇場で初演されました。サヴァリッシュの「指環」は、レーンホフによる舞台演出が、宇宙船が登場するSF的なものだったで、かなり話題を呼びました。サヴァリッシュとしても大得意のワーグナーをこの歌劇場の総監督として、音楽的にも最も充実していた時代の演奏なので素晴らしいです。この劇場のオーケストラの音には南ドイツ的な温かみが感じられ、バイロイトほど凄味の有る響きではないものの、繊細な美しさが魅力です。唯一のマイナスは「ワルハラ城への入場」での管弦楽の弱さが残念でした。それでもサヴァリッシュの統率力は全く持って素晴らしく、管弦楽と歌手の絡み合いも非常に上手く、ライブとは思えない完成度の高さです。歌手ではヴォータンのロバート・ヘイル、アルベリヒのエッケハルト・ヴラシハを始めとして、バイロイトに決してひけを取らない実力派の面々が揃っています。録音の素晴らしさも特筆出来ます。バイロイトのようにオーケストラピットが隠れていないので、楽器の音が明瞭です。NHKの録音はそれでいて温かみある響きを忠実に捉えています。CDは契約上からかEMIからリリースされました。
ダニエル・バレンボイム指揮バイロイト祝祭劇場管(1991年録音/ワーナークラシックス盤)
UNITELがバイロイトでDVD制作したプロジェクトで、ハリー・クプファーの近未来的な舞台演出が話題となりました。指揮を任されたのはバレンボイムで、このコンビによる「指環」は1988年から1992年まで5年連続で公演されました。ライヴ収録ではないことから録音の質が高く、CD化された音も非常に優秀です。バイロイトだけあって、ショルティやカラヤンのセッション録音と比べると生の舞台の雰囲気が失われてはいません。マルチ才能のバレンボイムですが、こと指揮者としてはオペラ、それもワーグナーが最も素晴らしいと思います。この翌年からベルリン歌劇場の監督を30年にもわたり任されたことはその証明です。スタイルはフルトヴェングラーのワーグナーと共通していて、ゆったりとした遅いテンポを基調としたスケールの大きさを持ちながらも、随所でテンポを速めてドラマティックさを演出する実に巧妙なものです。クナッパーツブッシュのあの腹芸のような有難みこそ有りませんが、それを録音の優秀さがカヴァーしています。この年代となるとバイロイトのオーケストラも最高レベルに達していて、やはりバイエルン歌劇場よりも上だと思わざるを得ません。歌手ではヴォータンのジョン・トムリンソンも悪くないですが、フリッカのリンダ・フィニーは声質に“イラチ“っぽさが感じられて楽しいです。アルベリヒのカンネン、ミーメのハンプフにも不満なしです。
クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭劇場管(2008年録音/オーパス・アルテ盤)
今やワーグナー指揮者の第一人者であるティーレマンのバイロイト公演ですが、バイロイトの全曲ライブ録音としては、前述のベーム盤以来、40年ぶりのリリースでした。ティーレマンは遅めの基本テンポでスケールの大きな演奏スタイルから、以前は「往年の巨匠の真似」と揶揄もされましたが、今では「ドイツの伝統を継承するただ一人の指揮者」と高い人気を誇ります。所有する「指環」の最も新しい全曲盤だけあって、録音が本当に素晴らしいです。バイロイトの柔らかい音響が再現されていますが、個々の楽器の音も良く聞こえます。オーケストラの質も過去最高では無いでしょうか。前奏曲からして神秘的な響きがまるで最上級のブルックナーを想わせます。管の澄んだ響きはスメタナの「高い城」を彷彿させて、『なるほど“高い城”か。。。』と納得です。それらが余りにも美しく、客席の雑音が皆無なので、本当にライブかと疑うほどです。最後に盛大な拍手が入ってはいます。巨人兄弟や雷神のティンパニの強打を始めとした音の迫力は凄いですが、一方でベームのような劇的な迫力には欠けます。近いのはクナの演奏です。つまりクナの演奏をステレオ録音で聴きたければ、その代わりとなる録音だと言えるかもしれません。歌手については現代の実力者が卒なく揃っていますが、クナ時代の大歌手達と比べてこじんまりとしているのは止む無しです。ちなみにティーレマンはこの録音の後に二度目の「指環」全曲をウイーンで録音していて、そちらは未聴ですが近いうちに聴いてみたいです。
クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン国立歌劇場管(2011年録音/グラモフォン盤)
ティーレマンの二度目の「指環」録音ですが、2008年のバイロイトから僅か3年後のウィーン国立歌劇場におけるライブ盤が出るとは思いませんでした。それもウィーン・フィルの「指環」としてはショルティ盤以来です。この2011年のウィーンリングは2008年のバイロイトリングに比べて録音が劣るというリスナーレヴューが散見されたので購入を躊躇していました。ところがサンプル試聴してみると一概にそうとも言えなそうなので購入したところ、録音は少しも悪く有りません。確かに第1場では管弦楽も歌手も音が遠く聞こえて、良い印象は受けません。けれども第2場に入ると音に俄然迫力が増しました。音自体はホールの座席で聴くような自然な音造りで柔らかく感じられるので好みの問題です。ダイナミックレンジがかなり広く取られているのでオーディオ機器によっては聴き難いと思います。かくいう我が家でもそれは言えて、バイロイト盤の方が聴き易いです。歌手はヴォータンのアルベルト・ドーメン以外はバイロイト盤とは大半が異なるメンバーとなっていて、現在のワーグナー歌いとしてはそれなりに揃っているものの、かつての大歌手達と比べればやはり小粒なのは仕方ありません。バイロイト盤と両方持つ必要が有るかという点では、バイロイト盤一つで良いと思います。もちろんティーレマンや「指環」のファンでしたら、二つ持たれて損は無いです。
というわけで、これまでに興味を持ったCDは一通り入手して来ましたが、数えたら結局18種有りました。まだ「ラインの黄金」だけとはいえ、すべてを集中して聴いたのは初めてのことです。それにより、それぞれの違いが単発で聴くよりも遥かに見えてきます。聴く前には、どうせクナの1958年盤の出来レースだろうと思っていましたが、とんでもない!それに迫る演奏が随分と有りました。特に気に入ったのは、そのクナッパーツブッシュの1958年バイロイト盤、カイルベルトのバイロイト盤、ベームのバイロイト盤、ティーレマンのバイロイト盤の4種類です。次点にはレヴァインのメロポリタン盤とバレンボイムのバイロイト盤を上げます。
反対に余り気に入らなかったのがショルティ盤で、理由は余りに取って付けた編集が多く、セッション録音然としているからです。恐らく部分部分を取り出して聴くには良いのでしょうが、通して聴くと飽きてしまいます。やはり楽劇と言えど「劇」ですから、劇場の息づかいが感じられないと少なくとも自分は好きに成れません。
さて、次回は「ワルキューレ」ですが、聴き終わるのはいつになるか。。。
<補足>ティーレマンの2011年ウィーン国立歌劇場盤も結局入手して加えました。
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