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2011年10月16日 (日)

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491 名盤

第22番、23番に続く第24番も同じ年の作品です。けれども曲想はがらりと変わります。モーツァルトのピアノ協奏曲の中で短調の曲はわずかに2曲ですが、ひとつはあの第20番K466。もうひとつがこの曲です。どちらの曲も同じように暗くデモーニッシュな雰囲気ですが、感情をストレートに吐露する点で第24番は第20番以上です。

この曲は調性がハ短調ですが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が同じハ短調です。ですので、この2曲には何となく同じ香りを感じます。おそらくベートーヴェンはモーツァルトのこの曲に深い共感を覚えていたに違いありません。

この曲は、モーツァルトが予約演奏会のために書いた最後の曲になりました。自分の書きたい音楽をあからさまに表現してしまったために、耳触りがよく、明るく社交的な音楽を望むウイーンの聴衆からはこれで完全に見放されることになります。そういう点でも、この曲は孤高で悲壮感に溢れる音楽です。

第1楽章アレグロは、暗くものものしく始まったあとに、感情が激しく爆発する楽章です。ウイーンの聴衆はさぞかし驚いたことでしょう。ロマン派を先取りするような音楽は、ベートーヴェンが手をつける前からモーツァルトによって成されていたのです。

第2楽章ラルゲットは、第20番の第2楽章と共通するような、穏やかで優しい静寂に包まれた音楽です。木管楽器がピアノと何と美しく寄り添ったり離れたりすることでしょう。

第3楽章アレグレットは、主題に8つの変奏曲が続きます。1楽章と同じように、哀しみの感情が激しく爆発しますが、この曲ではとうとう20番のように明るく終えることも出来ずに、悲劇的なままに曲を閉じます。

おそらく、「モーツァルトの音楽は綺麗だけれども、どうも聴き応えに不足する」と感じておられる方にとっては、この第24番は第20番と同じように受け入れられるはずです。ちなみに自分の場合は、第23番や27番を更に好んではいますが、もちろんこの曲にも効し難い魅力を感じています。

それでは、僕の愛聴盤をご紹介してゆきます。

Img_232134_8126049_0クララ・ハスキル独奏、マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルー管(1960年録音/フィリップス盤) ハスキル最後の録音であり、第20番とカップリングの定番ディスクです。最新リマスターではハスキルのピアノの音がとても美しく嬉しいです。しかもタッチが非常に力強いのにも驚かされます。一つ一つの音符やスケールの全てが大切に意味深く扱われているのにもつくづく感心します。2楽章の深い哀しみの情感はどうでしょう。マルケヴィチの指揮は非常に激しくデモーニッシュなものですが、打楽器が強硬され過ぎに感じます。 

41h5p5kghfl__sl500_aa300_ウイルヘルム・ケンプ独奏、ライトナー指揮バンベルク響(1960年録音/グラモフォン盤) ライトナーの指揮するオケのほの暗く美しい響きに驚きます。リズムに切れも有ります。ケンプのピアノは、おおらかな印象で、取り立てて深刻ぶらないのに味わいが有ります。ベートーヴェンでは音にひ弱さを感じるケンプですが、モーツァルトではフォルテが強過ぎずに丁度良いです。イン・テンポで弾いているのに少しも機械的に感じないのもさすがです。2楽章は淡々としていますが、自然にじみ出るような哀しみの情感を感じます。但し、3楽章は更にデモーニッシュな雰囲気が欲しいところです。録音はこの時代にしては優秀です。

Casad_00ロベール・カザドシュ独奏、セル指揮クリーヴランド管(1961年録音/CBS盤) 冒頭、セルの威厳のある指揮に惹きつけられます。響きが美しく、フレージングやアクセントに多彩な表情がつけられていて感心します。カザドシュのピアノは淡々としていますが、決して無味乾燥なわけでは無く、とても美しい演奏です。但し、ピアノの録音がこもりがちでパリッとしないのが欠点です。せっかくの珠を転がすようなタッチが魅力半減です。

671ゲザ・アンダ独奏/指揮、ザルツブルク・モーツァルテウム室内管(1966年録音/グラモフォン盤) 全集盤からの演奏です。1楽章は速めのテンポで切迫感を感じます。この曲にしてはいくらかオケの響きに薄さを感じないでもありませんが、デモーニッシュな雰囲気で悪くありません。アンダのピアノは硬質の音で力強く素晴らしいです。2楽章では大きめの音であっけらかんと弾いているようでいて、不思議と美しい情感を感じさせます。3楽章も1楽章と同様の表現で良いです。

932 パウル・バドゥラ=スコダ独奏/指揮、プラハ室内管(1970年録音/スプラフォン盤) バドゥラ=スコダ教授の弾き振りです。いかにもウイーン正統派のスタイルという印象です。ドイツ流ほど厳格では無く、フランス流ほど自由さは有りません。音符やフレーズの処理がきっちりしていても窮屈にならないのが良いです。3楽章は速めで歯切れの良さが有ります。全体的に端正なピアノですが、とても美しさを感じます。こういう演奏だったら当時のウイーンの聴衆にも受け入れられたんじゃないかと思います。

2edebf2ef962870ed7a190d588ced904ダニエル・バレンボイム独奏/指揮、イギリス室内管(1971年録音/EMI盤) EMIの全集盤に含まれています。まず冒頭のオケの濃厚でロマンティックな表情に圧倒されます。フォルテの音は激しくデモーニッシュさを感じさせます。こういう指揮が出来たら指揮者に転向して当然ですね。ピアノのタッチも重すぎず、自由自在さが有って、僕には理想のモーツァルトの音に聞こえます。2楽章もたっぷりとロマンティックに酔わせてくれます。3楽章も素晴らしく、力強いピアノとオケが最高です。それでいて音が少しも固くなりません。この演奏は、全集の中でも第22番と並ぶ名演だと思います。

Fi2546314_0e アンネローゼ・ シュミット独奏、マズア指揮ドレスデン・フィル(1972年録音/独edel盤) 全集盤からの演奏です。1楽章は速めのイン・テンポで進みますが、安定感が有るのはさすがにドイツ流です。曲の持つロマン的な雰囲気よりは、古典的な造形性を強く感じさせます。ですのでこの曲の持つ、感情の激しさを求めると肩透かしをくらいます。2楽章も速いテンポで、あっさりとすり抜けます。3楽章も1楽章と同様に余り悲劇的な雰囲気を感じさせないので、少々物足りなさを覚えてしまいます。

Mozart-_a5010145w ウラディーミル・アシュケナージ独奏/指揮、フィルハーモニア管(1979年録音/DECCA盤) アシュケナージの弾き振りによる録音です。正確で粒のそろったピアノタッチは美しいのですが、1楽章など、この曲のデモーニッシュさがまるで感じられずに大人しい演奏です。それはピアノだけでなく管弦楽パートについても同様で、後年には指揮者としても盛んに活動をしてゆく人とは思えない退屈な指揮ぶりです。少なくともモーツァルトの協奏曲に関してはバレンボイムの弾き振りの才能とは大きな差があります。

Mozart_serkin ルドルフ・ゼルキン独奏、アバド指揮ロンドン響(1981年録音/グラモフォン盤) ゼルキン&アバドの選集に含まれています。この曲でもやはり遅いテンポのゼルキンにアバドがしっかりと合わせています。1楽章では両者とも感情の爆発がかなり抑制されている印象で、その代わりに深い哀しみの表情が心に浸みこんできます。2楽章は意外にテンポの微妙な揺れや間が有るので、淡々とした感じは受けません。3楽章ではゼルキンのピアノが俄然力強さを押し出してベートーヴェンさながらです。スケールの大きさがユニークです。

31sa8psmmzl__sl500_aa300_ダニエル・バレンボイム独奏/指揮、ベルリン・フィル(1988年録音/TELDEC盤) まずは冒頭のオーケストラの迫力に圧倒されます。まるでシンフォニーのようです。いや、以上かも。ピアノももちろん頑張っていますが、自分の指揮するオケに対して分が悪いというのは皮肉です。全体にEMI盤と同じように大変ロマンティックな演奏で聴きごたえが有りますが、個人的にはピアノとオケのバランスが取れたEMI盤のほうが、聴いていて自然に惹き込まれます。

4109031243_2 エリック・ハイドシェック独奏、グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管(1992年録音/VICTOR盤) ハイドシェックは若い時代にこの曲のモノラル録音を残していますが、聴いたことはありません。ですので、時を経て新しい演奏を聴くことができたのは嬉しいです。昔と比べると表情づけがずっと濃厚になりました。ただし個人的には、たとえ未熟な部分は有っても、ひたすら感性で天衣無縫に弾いていた若い時代の演奏のほうを好みます。それに、美しかったタッチも少々衰えを感じます。オーケストラが第一級とは言えないのも残念です。

ということで、以上の中のマイ・フェイヴァリット盤はというと、ピアノとオケの両方が素晴らしいバレンボイムのEMI盤です。そしてピアノだけならハスキル盤も大好きです。

<関連記事>
モーツァルト ピアノ協奏曲第24、21、17、12番 ポリーニ/ウイーン・フィル盤

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モーツァルト(協奏曲: ピアノ 第20~27番)」カテゴリの記事

コメント

ハルくん、こんにちわ

モーツアルトのピアノ協奏曲では、やはり、この第24番と第20番の短調の2曲が最も好きです。と言うか、他のピアノ協奏曲はほとんど聴きませんので。

ちなみに持っている録音は、上げられているハスキル・マルケビッチのものと、フィッシャーの古い録音等です。

投稿: matsumo | 2011年10月16日 (日) 18時28分

matsumoさん、こんばんは。

20番、24番はもちろん名曲ですが、それ以外にも魅力的な曲は目白押しだと思います。
案外と、ある日突然に目からうろこの機会が訪れるかもしれませんよ。

投稿: ハルくん | 2011年10月16日 (日) 19時51分

ハルくんさん、こんばんは~。

モーツァルトのピアノ協奏曲シリーズも、いよいよ第24番ですねぇ~。僕もmatsumoさん同様に、この曲は第20番と共に好きですが~、フィナーレのエンディングまで悲劇的なのは、どうもモーツァルトらしくないので、どちらかと言えば第20番の方が好きかな?

でも、天衣無縫でチャーミングかつ2楽章に憂いを秘めた~第23番の方がモーツァルトらしくて魅力的かな?と、思うこともあります。

どうも前置きが長くなってすみません。ということで、私の愛聴盤は~例によって、ハスキル/マルケヴィチ盤ですが、ハルくんさん御推薦のバレンボイムの旧盤と、ハイドシェック盤も聞いてみたいです。他に個性的で魅力的な演奏があったら、教えて下さいね。

投稿: kazuma | 2011年10月16日 (日) 21時20分

kazumaさん、こんばんは。

やはり20番と24番がお好きですか。そういう好みの方はやはり多いようですね。
僕は23番を出されると、どうしてもそちらに傾いてしまいますが、結局はみんな好きなんですねー。(笑)

投稿: ハルくん | 2011年10月16日 (日) 21時33分

こんにちは

すでに25番まで進んでいますが、24番にコメントを
残したかったので、まずはコチラから。
やはり短調の二曲は大好きで、これは世評の通りだと
思いますし、もっとも繰り返し聴いた曲でしょう。
やはり、バレンボイム盤とハスキル盤がお気に入りと
なってしまいます。
個人的には地味めな22番に肩入れしてしまうのですが。

投稿: メタボパパ | 2011年10月22日 (土) 15時52分

メタボパパさん、こんにちは。

バレンボイムとハスキルは、どちらも本当に良いですね。僕も大好きな演奏です。

24番と22番の比較というのも辛いですが、僕もどちらかいうと22番に肩入れしてしまいそうです。

投稿: ハルくん | 2011年10月22日 (土) 21時45分

高校生のころ時々言った名曲喫茶でかかっていたのを思い出しました。ケンプだったような気がします。

短調の曲でも終楽章は同名長調に転じることが多いですが、短調のまま終わる名曲は案外ありますよ。Mozartだと交響曲40番とかセレナーデ12番とか。このセレナーデ(不思議な曲です)やフリーメーソンの葬送曲では、同じハ短調が使われていて、この調性に対するMozartの感覚がうかがえます。

投稿: かげっち | 2011年11月 1日 (火) 12時15分

ハルくん、かげっちさん。こんばんは~。

今夜は、ピアノ協奏曲第24番に関連して、かげっちさんが、興味深いコメントをされていたので、私からも~。確かに、モーツァルトがハ短調の調性を用いると、ベートーヴェンとはまた違った~独自の音世界を創出していますよね。なんと言うか~、秘密めいた神秘的な感じ~……

それは、第24番にもフリーメーソンの葬送曲にも、色濃く感じますよね。確か~晩年に作曲した弦楽五重奏曲にも、ハ短調の曲はなかったでしょうか? とにかく、モーツァルトのハ短調の曲には、妙に惹かれるものがあってとても好きです。

投稿: kazuma | 2011年11月 1日 (火) 21時11分

かげっちさん、こんにちは。

そうですね。ハ短調の悲劇的な雰囲気というのは独特です。ただ、どちらかいうとベートーヴェンの調性のイメージかなぁとは思いますが。
他にもホ短調、イ短調、そして何と言ってもト短調とモーツァルトに似合う調性は色々とありますね。

投稿: ハルくん | 2011年11月 1日 (火) 22時36分

kazumaさん、こんにちは。

モーツァルトのハ短調は曲にも寄りますが、何か厳粛な印象を感じます。「神秘的」というのは言い得ていると思いますよ。

弦楽五重奏曲第2番がハ短調ですが、これはセレナーデ第12番「ナハトムジーク」の編曲なんですね。
むしろ第4番のト短調がとても人気が有りますね。

投稿: ハルくん | 2011年11月 1日 (火) 22時47分

ハルくんさん、kazumaさん、こんにちは。

その「神秘的」と形容される特徴が、まさにフリーメーソン的な特徴なのではないか、と勝手に思っている次第です。彼には短調の曲が少ないので、よけいそれぞれの曲の特徴を感じるのかもしれません。

管楽器にしても弦楽器にしても平均律鍵盤とちがって、音によって鳴り響き方が不均一なので、調性によって音楽の正確が異なるのでしょうね。

投稿: かげっち | 2011年11月 2日 (水) 12時32分

ハルくんさん、かげっちさん。こんばんは~。

かげっちさん、よくぞ!仰って下さいましたねぇ~。私が言いたかったのも、そこなんです。晩年に宗教結社?フリーメーソンにのめり込んで行った、モーツァルトの謎めいた神秘性が、このフリーメーソンの葬送曲に色濃く反映されていて、僕はこの曲を聞くとゾクゾクします! 

この謎めいた神秘性は、ピアノ協奏曲第24番にも、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」にも感じますし、その集大成が絶筆となった「レクイエム」ではないか!?と、自分勝手に思っている次第です。

投稿: kazuma | 2011年11月 2日 (水) 18時09分

かげっちさん、kazumaさん、こんばんは。

フリーメーソンは秘密結社ですので謎めいているのは確かですが、考えてみればモーツァルト自身も、普通の人間では無い人物に思えます。「神の使い」「宇宙人」「超人」・・・何でもいいのですが、モーツァルト本人そのものに謎めいた神秘性を感じてしまうのです。

投稿: ハルくん | 2011年11月 2日 (水) 21時56分

KV491, 曲自体はモーツアルトが書いた中では最高に美しく、特にラルゲットは、単純なピアノのパートと精緻なオーケストラのかけあいによって、並ぶものが無い。ちょうど満開の桜の中にいるような完全性がある。
グールドの分析には90%同意ですが、問題は、演奏の困難さで、ピアノとオーケストラが完全に響いた演奏にまだめぐり合っていないことです。ベートーベンの頭の中ではもしかすると完全に響いていたかもしれない。エレナ、グリモアはこの曲をやってくれるだろうか?やったとしてうまくいくだろうか?どの演奏を聴いても完全には聞こえなくて、仮に全貌が聴けたとしたら、遥かに美しいだろうと想像せざるをえない曲だと思います。それでも、モーツアルトからたった1曲を選ぶならこれですね。

投稿: tora | 2012年2月11日 (土) 01時00分

toraさん、はじめまして。
コメントを頂きましてありがとうございます。

確かにK491は傑作ですが、K488やK595をこよなく愛する我が身としては、50%の同意というところでしょうか。でも、この曲が一番好きだと言う友人も多いです。

グールドの演奏は残念ながら聴いていませんが、「ピアノとオーケストラが完全に響いた演奏にまだめぐり合っていない」というのは確かにそんな気がします。中ではバレンボイム盤が好きですが、もっと凄い演奏が現れても良いですね。

どうぞ、また何でもお気軽にコメント下さい。
今後ともよろしくお願い致します。

投稿: ハルくん | 2012年2月11日 (土) 10時03分

ハルさん、
バレンボイム盤はピアノのパートが感情過多だしオーケストラのバランスも良くないので、この曲の表現としては嫌いです。ティンパニも強すぎるし。KV491のような曲で、ティンパニを強打されると、そこで視聴終了。エレナ、グリモアはピアニストとしての才能もさることながら、KV488でのオーケストラとのバランスが最高。フィナーレなんか、すべてのパートが躍動していて、すごいでしょう?だから、もしかすると、KV491の驚嘆すべき美しさを現実の音に変えてくれるかも?という淡い期待を持っています。

投稿: tora | 2012年2月11日 (土) 21時20分

toraさん、こんばんは。

バレンボイム盤は好みが分かれるのでしょうね。僕はあの自由自在でロマンティックなピアノが好きですよ。ティンパニもハスキル盤のマルケヴィチほどには強過ぎに感じません。あの表現スタイルには丁度良いバランスです。

エレーヌ・グリモーのK488のフィナーレは素晴らしいと思います。そのうちK491も演奏してくれるかもしれません。実現したら良いですね。

投稿: ハルくん | 2012年2月11日 (土) 22時00分

ピアノのパートだけを取れば、今もってグールドがベストだと思います。他のピアニストとの差はあまりにも歴然なので、特にコメントしません。オーケストラと合わせた時は、ひどく不満です。ピアノがイニシアチブを取るラルゲットは、まあまあですが、他の楽章は、もっとできるのにと思ってしまう。Heleneに期待か? でもこの曲は、オーケストラの編成が大規模で、ティンパニまでついている。弾き振りするには、負担が重い。思うに、オーケストラの編成はできるだけ小さくして、ティンパニはあとで、電子的に加えるとかしたほうがいいと思う。シューリヒトみたいな、ティンパニのタイミングを自在にコントロールできる指揮者が指揮に集中するならともかく、ピアノ弾きながらじゃ無理だ。

投稿: tora | 2012年2月25日 (土) 19時17分

toraさん、こんばんは。

こだわりのK491ですね。僕はグールド盤は聴いていませんのでわかりませんが、オケに問題が有るのは困りものですね。

ピアノ弾き振りでも、toraさんはお嫌いですがバレンボイムのEMI盤で僕は充分に満足しています。この曲はもちろん大好きですが、それほどのこだわりは無いからなのかもしれませんね。

投稿: ハルくん | 2012年2月25日 (土) 23時42分

バレンボイム盤はこの曲の3割くらいしか表現できていません。グールドでようやく5割。

投稿: tora | 2012年2月26日 (日) 23時53分

toraさん、なるほど、こ自身の理想が高ければ高いほど、そうなるのでしょうね。

投稿: ハルくん | 2012年2月27日 (月) 06時41分

いくら説明してもわかってもらえないと思いますけど、ここでMozartが表現したかったのは、感情でもなく、肌合いの心地よさとかでもなく、音楽構造の外側にある空間だったのだろうと思う。非音楽的な空間表現といってもいいですけれど、明らかに、Mozartとしては例外的に、単なる音楽以上のものに向かっています。
地球を宇宙から見るのと同じような、不思議な感覚と美しさが、この曲にはあります。

投稿: tora | 2012年3月15日 (木) 22時36分

toraさん、こんばんは。

この作品への、並々ならぬ思い入れをお持ちなのがよくよく理解できました。
もちろんK491が大変な傑作だとは思いますが、仰るような<地球を宇宙から見るのと同じような、不思議な感覚と美しさ>が有るとすれば、僕の場合はK595にも、同じように感じてしまいます。

投稿: ハルくん | 2012年3月16日 (金) 00時11分

僕は、KV595は全く評価しません。残念ですが、病んだ痛々しさが目立つばかりで、これが哀れな天才の末路という感傷があるから、そう聴こえるだけで、それ以上のものは無いと思います。昔、ヘブラーの演奏に感動したことはありますが、、、諦めの境地というか、KV491に見られる、創造的な美しさとは異質です。バレンボイムのEMI盤は全曲聴いていますが、5番と8番が屈指の演奏です。KV595に比べると過少評価されすぎているこれらの若い頃のMozartの名品に光を当てたという意味で貴重。

投稿: tora | 2012年3月16日 (金) 23時10分

現世との惜別の歌ともいえるK595は、単なる傑作とかそうでないという議論を超えた、他の曲とは次元の異なる曲です。その意味で最も近いのがK622でしょうね。
どちらも彼岸の音楽とも呼べるような詠嘆の美しさが有ります。「哀れな天才の末路という感傷」などとは全く無縁です。
モーツァルト・ファンでこの名作に心を動かされない方がおられるとは実に意外でした。人の好みというのは本当に有るものなのですね。

投稿: ハルくん | 2012年3月17日 (土) 08時31分

KV595もKV622も、演奏者のテクニックに必要以上に気を使った作品だと思います。演奏がヘタクソでもそれなりに聴けるように設計されている。それがMozartの本心だとは僕は思わないし、それがいいことだとも思わない。KV491ではそんな配慮はなく、表現したいものを表現した。Mozartの当時のピアノのテクニックがどうかは知る由もありませんが、現在でも大半の演奏はこの曲を表現できるテクニックを持ち合わせていない。指が動かず息切れしてしまう。KV595がKV491よりも良く聞こえるとしたら、単純にKV491を表現できる技術が無いだけのことだと思う。問題なのは、KV491の興業的失敗に気を落としたのか、平凡な技術でも効果が上がる方向に進んでしまったことで、本人は内心それがいやでいやでしょうがなかったんじゃないかと、思う。死んだ年に書いた作品の中ではmagic fluteがいいと思います。

投稿: tora | 2012年3月17日 (土) 21時48分

toraさん、死んだ年の作品が全て良いとも思いませんが、K595、K622、魔笛、レクイエム(未完成ながら)は、モーツァルトを愛する人にとってはどれもが最高の音楽です。
作曲の背景をあれこれ考えずに、曲そのものの美しい姿に真正面から向き合えば、きっとそのように感じられるはずです。でなければ、それは単なる「好き嫌い」ですね。「傑作」をたとえ嫌いでも、それは誰にとっても自由なわけですから。
僕はモーツァルトのピアノ協奏曲は全曲好きですよ。そう感じられて、とても幸せに思っています。

投稿: ハルくん | 2012年3月17日 (土) 23時09分

僕は彼の後期の作品が、中期の作品に比較して、出来が悪いと言っているだけで、その質のバラツキにもかかわらず、最も好きな作曲家です。たとえば、Great Mass(KV427)のQuoniamの美しさはこれに匹敵するものがほとんどありません。ベートーベンの第九の終楽章の四重唱でさえ、この曲の前では顔色を失うほどです。曲全体の構成力という点では、バッハがモーツアルトよりも格段に上です。バスの使い方が決定的に異なります。バッハの明快なバスの使い方が特徴的であるというよりは、モーツアルトのバスの使い方が異質だと思います。モーツアルトはバスをリズミックな強調要素として使うことが極端に嫌う傾向があり、それ(リズミックな強調)を人の声の帯域で行おうとする。多くの場合、この特徴ののために、われわれは、それがモーツアルトの作品だということを認識するのです。

投稿: tora | 2012年4月 9日 (月) 22時46分

toraさん、こんばんは。

僕もたぶんモーツァルトが一番好きな作曲家かもしれません。
けれども、後期の作品が中期の作品に比較して出来が悪いとは全然思いませんし、ベートーヴェンの第九の終楽章が、大ミサ曲の前で顔色を失うとも思えません。

曲全体の構成力という点で、バッハがモーツァルトよりも格段に上という意見については同感です。

投稿: ハルくん | 2012年4月 9日 (月) 23時39分

僕はべト九の終楽章がモーツアルトのGreat Massに比べてどうのこうのなんていうつもりはありません。べートーベンはこのフィナーレのピークで四重唱を使います。それは多分べートーベンがいちばん伝えたかったことなのです。全ての前置き、段取りは、この四重唱のためにあるといっていいほどです。その四重唱よりもMozartのQuoniamの三重唱は美しい。遥かにね。正直、Quoniamだけを切り出してでも演奏会でやってほしいほどです。P Conに戻すとKV595は凡曲でKV491の十分一くらいの出来だと思う。

投稿: tora | 2012年4月10日 (火) 21時00分

toraさん、

第九フィナーレの四重唱よりもモーツァルトのQuoniamの三重唱のほうが美しいというのはともかくとして、K595がK491の十分一の出来映えだというのは、色々な見方があるものだなぁと思いました。もちろん、それで良いと思いますよ。誰の評価や価値観も全くその人の自由ですからね。

投稿: ハルくん | 2012年4月10日 (火) 22時43分

ええ、ハルさんの聴き方とは相容れません。KV491はどちらかというとオペラ寄りに仕上がっていて、身振りとか表情が音楽としてよくとらえられていて、飽きることがありません。KV595は一人称というか私小説風な構成で、想像の余地が無い。KV491でさえ私の理解とは反対に、あれはMozartの感情の吐露だと言う人がいるくらいですから、わけがわかりません。せいぜい新しい発見に努めます。

投稿: tora | 2012年4月19日 (木) 01時23分

ハル様こんにちは。
まだ訪問3度目ですがついつい見入ってしまいました。熱いですね~
僕もK595はそれ程とは思えない1人です。この曲が1788年にあらかた完成されていたとしても、従来の説通り最晩年の作だとしても、とにかくそれ程良く出来ているとは思えません。また他の作曲家で言うなら、モンテヴェルディでもラモーでも最晩年の作は質的ピークを過ぎ劣化したようなことが言われたりします。それに同意するかどうかはともかく、末期作品の質的劣化はさほど珍しい現象ではないかもしれません。
あと、モーツァルトの協奏曲全般に共通する特徴として、ソロパートに技巧・名人芸の見せ場が少なく地味で、その不足分を管弦楽で補っているかのような傾向があると思われます。その為、例えばP協奏曲ならほぼ同世代のDussekの協奏曲、Vn協奏曲ならViottiの協奏曲と比べると、華やかさに欠け、ソロを堪能するという意味での協奏曲の醍醐味に不足を感じてしまいます。これは作曲者の個人的資質や嗜好よりも活躍場所の趣味の違いに起因する面が大きいのかもしれませんが。DussekにしてもViottiにしてもパリやロンドンという大都会での活躍期間が長いですから。

投稿: 花鳥 | 2012年4月22日 (日) 13時45分

花鳥さん、こんにちは。

音楽を「器楽的」に聴かれる方にはK595は余り面白い曲では無いと思います。僕の場合は、どちらかいうと音楽を「文学的」に聴く傾向が強いので、この曲の「器楽的な」単調さは少しも気にならずに、かけがえのない美しい曲に感じてしまいます。これは明らかに聴き方の違いに起因するものでしょう。

モーツァルトの協奏曲全般についても同じことが言えると思います。器楽的にソロを堪能できる曲よりも、音楽(空気感?)そのものに堪能できる曲はモーツァルトにはやはり多いと感じています。これはもう単純に好みの問題ですね。当然、逆に感じる方も多くいらっしゃるはずですが、人気投票では有りませんので、優劣を付ける必要もありませんし。

最近は色々な意見をお聞きして、尚更そんな風に感じています。

投稿: ハルくん | 2012年4月22日 (日) 22時49分

みなさんのご意見は大変興味深いですね。

モーツァルトは器楽的な見せ場でも意図的に抑制を効かせています。技術的に見ればピアノのヴィルトゥオージティはモーツァルトにはほとんどないですよ。綺麗に演奏するのは非常に難しいですが、規則性があるので運指そのものはかなり易しいのです。

モーツァルトは作品で感情を吐露するタイプの作曲家ではなく、ロココ調に則って音楽を観照的に仕上げるというスタイルを貫いた人だと思いますね。それで作品数もきわめて多くなったわけですし、後世の作曲家のように全身全霊で主観を表現しているわけではないと思います。後期というよりは脂が乗った中期に死んだので、その頃の作品なら傑作と凡作の波はあまり私は感じないのですが。

音楽はもともと数学に分類されていた学芸ですから、和声の定石や形式の制限の中で何をやるかというのが彼の時代の美学だったと思います。50歳を過ぎていれば質的にまた違う音楽が展開されたのかもしれませんが、30代では多くの数学者と同様、能力の真っ盛りだったのではないでしょうか。

投稿: NY | 2012年4月23日 (月) 01時35分

ハル様
律義にコメント下さり有難うございます。
「器楽的に聴く」「文学的に聴く」とは具体的に如何なることを指すのか解りかねますが、もしかすると、モーツァルトを聴くということは人によっては、音楽を聴くことではなく、畏敬や崇拝の念、感情移入、信仰的要素を伴った行為なのだ、というような趣旨でしょうか。そうだとすると僕は全然別のタイプです。「文学的」とは、メタスタージョの詞に作曲家がどう付曲したかとか、ゴルドーニの戯曲とブッファとの相関関係とか、クロプシュトックやゲーテの疾風怒涛時代の詩がリートにどう影響を及ぼしたかとか、そういうことを探求するという意味ではないですよね。おそらく。個人的にはそっちの方がずっと興味深いテーマではあるのですが。

それはともかく、僕はK595を聴いても、言い古された「白鳥の歌」は特に感じないので、仰るところの「文学的」な聴き方ではないのでしょうね。ただ、細かいことを言うならば、この曲が作曲者最後のP協奏曲であるという確証もなければ(1788年に大半が作曲されていたという説もある)、作曲者が自分の人生や人生観を投影して作曲したという確証も何もないのであり、作曲者にしてみたら、後世の人間による訳の解らない勝手な妄想にすぎない、という可能性だって充分ありますよね。

あ、コメントはいりません。全員の相手は面倒ですよね。

投稿: 花鳥 | 2012年4月23日 (月) 23時23分

NYさん、コメントありがとうございます。

ヴィルトゥオージティが無く、運指も易しいからこそ、本当に美しく弾くのが難しいのでしょうね。ごまかしやハッタリが一切きかないわけですから。

数学的な作曲において最高の大家はもちろんバッハでしょうが、モーツァルトのには、もっと自由さを感じます。時代の変わり目だったのだなぁと改めて認識します。

モーツァルトがもしも50まで生きていたら、一体どんな音楽を書いたでしょうね。興味は尽きません。

投稿: ハルくん | 2012年4月23日 (月) 23時58分

花鳥さん、

そんなに難しい意味のつもりでは無いのですよ。
「器楽的に聴く」という表現は、華やかなソロを堪能して聴く、という意味です。「文学的に聴く」というのは逆に、華やかなソロがたとえ無くても音符の間に漂う空気感を感じて満足できてしまう、というような聴き方という意味です。僕は、K595の作曲背景がどうのこうのと考えなくても、この曲を聴くときには、まるで深まる秋の空気感のようなものを感じるのです。
もう少し言葉の意味を明確にしておかなければいけませんね。読んだ方が、お分かりになる訳は無いですものね。

投稿: ハルくん | 2012年4月24日 (火) 00時31分

モーツァルトのピアノ協奏曲は、どの曲も宝石のように光輝いていて、そして愛おしい。
おそらくハルくんも、モーツァルトのピアノ協奏曲の魅力を知らせたい、魅力を皆と語りたい、そんな気持ちでご自身のブログでコメントしていたに違いありません。
そして多くのモーツァルトの作品を愛する多くの方々が楽しく、ハル様のブログを訪問していたに違いありません。
いろいろな意見があるのは、よく分かりますが、ハルくんは、どのような気持ちでご自身のブログでモーツァルトの魅力を語ろうとしていたのか?そんな気持ちを、まずは原点として考えるべきでしょう。何といってもハルくんのブログなのですから。やはり、その趣旨に副うべきかと思います。どうしても納得出来ないという事でしたら、ご自身でブログを立ち上げて、とことん御自身の意見を力説するべきでしょう。それなりに賛同者も集まるかもしれません。
私はモーツァルトの音楽を心から愛しています。私も「文学的」に聴く聴き手でしょう。
笑えば笑えです。
ただ、この世にはモーツァルトの音楽を愛する音楽ファンが多くいるということを常に意識しておいてほしいものです。
最近、こちらのブログの流れが、たいへん気になっていたのでコメントさせて頂きました。たいへん失礼しました。

投稿: オペラファン | 2012年4月24日 (火) 00時32分

オペラファンさん、温かいコメントをどうもありがとうございます。

僕の気持ちを、すっかり代弁して貰ってしまいました。モーツァルトの音楽を、ピアノ協奏曲を聴いて、理屈抜きで感動できる自分です。24番も、20番も、10番台もそれ以前の作品も、どの曲もが本当に愛すべき曲なのですね。

もちろん何番より何番が好きという好みは誰でも有りますので、そこは尊重しなければいけませんね。ですので、あくまで「自分の好みは・・・・です。」と書かれる限りは、愉しく読ませて頂いています。
でも色々なご意見は、新しい発見、大きな刺激になりますので、寄せて頂いて構わないですよ。

投稿: ハルくん | 2012年4月24日 (火) 00時50分

ハル様どうもです。

僕に対する意見かどうかはっきりしないものも含め、幾つかのコメントを拝読して思ったのですが、僕に対してコメントされている(つもりの)方々は、僕が例示で挙げたモーツァルト以外の作曲家の作品を実際のところきちんと聴いておられるのでしょうか。内容がやけに観念的・大雑把なので、僕の文章を読み、あとは全て各自の想像や思い込みだけで発言されているのではないかという疑問を持ってしまいました。僕の文面上の表現を云々する以前に、やはり該当作品を実際に聴かれた上での意見でないと、当てずっぽうの対話になりますし、話が噛み合ってくる筈もないと思うのです。テーマが音楽である以上当然のことなんですが。

投稿: 花鳥 | 2012年4月24日 (火) 22時47分

花鳥さん、今晩は。

貴殿が例に上げられたDussekの協奏曲というのは僕は聴いていません。ViottiのVn協奏曲は有名?な22番だけです。後者については、華やかなものの正直それほどは惹かれませんでした。むろん聴き込み不足かもしれません。
しかしモーツァルトのVn協奏曲について言えば、3番~5番にずっと魅力を感じています。華やかな技巧的な見せ場を好むのも、特に執着しないのも、どちらも「音楽」を楽しむことに変わりは無いのではないでしょうか?何も音符が多い「音楽」が優れているということでは無いように思います。

くれぐれも誤解を持たれないでください。花鳥さんの幅広い見識と純粋に「器楽的な」(あえて音楽的とは呼びませんけれど)聴かれ方には大いに敬意を感じておりますので。

他の皆さんにも、是非お伝えしたいことは、音楽を聴くことに真剣で、愛すればこその様々なご意見、考え方が有るのでしょう。各自に違いがあるのは当然のことです。お互い敬意を払い合ってこそ、このような場での語り合うことの楽しみは成り立つものだと思います。

投稿: ハルくん | 2012年4月24日 (火) 23時57分

ハル様
毎回の律義なコメントに感謝いたします。

さて、DussekとViottiの現存する協奏曲はこの2人の合計だけでも50曲近くに達します。従って、ほとんどお聴きなっていないのですね。
ハルさんは僕が音楽を「器楽的」に聴くと認定されていらっしゃいますが、その具体的意味も理由もよく解りません。解る必要もないのかもしれませんが。しかしそれは、ハルさんが好まれるK595を僕が聴いたこともないのに、「ハルさんは、こうこうこういう聴き方をしているのだ」と発言するのと同じ事ように思えます。もし僕がそんな事を言えば、ハルさんも「一体君に俺の何が分かるのか?」と不審に思われるのではないでしょうか?この件について真摯に対話をするのならば、やはり対話者の双方が該当曲を聴くなり楽譜を見るなりしておくことが最低限度の条件になると思われます。
DussekもViottiも何も技巧が全てという訳ではないのです。聴かれていないので尚更そのような一面的とも思われる見方になってしまうのかもしれませんが、僕が彼らの曲をモーツァルトより買っている理由はそれだけではありません。細かい事を言うと長引きますので、シンプルにごく短く言えば、モーツァルトより音楽センスに優っているというところですね。
器楽という言葉に拘りをお持ちのようなので、その対をなす声楽曲についても言及しますが、こちらの分野でも、モーツァルトは
決して傑出した作曲家であるとは思えません。とりわけオペラ・セリアに関しては、同時代の他の作曲家の作品を聴かれた方は、その力量の差に驚愕されるのではないかと思います。モーツァルトのオペラは旋律美に欠ける、と書くと、表面的に旋律だけを聴いていると誤解する人が必ずいますね。しかしそれだけではないんですね。詞を音楽で描出する力量、音楽劇としての構成力、全てにおいて才能の差が歴然としています。「モーツァルトに限っては、他の作曲家とは敢えて異なる作曲方針、作品構想があるのだ」というような根拠希薄な思いつきの弁護など全く空し響く圧倒的な差であり、惨めなほどの敗北です。オペラ・セリアは退屈だというのが定説?のようですが、それはモーツァルトのそれがこのジャンルの代表作であるかのような誤った歴史認識の下に享受するからではないかと思います。ミトリダーテから最晩年のティトに至るまで、どれも芳しい結果を残せなかったのも当然と思われます。当時オペラ・セリアでの成功は、作曲家の力量を測る試金石であり、オペラでもブッファのほうはジャンル自体がBランク扱いでした。僅か3回の上演で打ち切られ初演当日の新聞記事からも無視されたイドメネオやドイツ人のクズ作品と罵倒されたティトの失敗は、モーツァルトの内心を深く傷つけたのではないかと思います。
この作曲家は元々セリアが苦手なのだと考えられますが、ティトのような水準の作品を上演にかけてしまったことに、最晩年の勘の鈍りや衰えを感じますね。
なお、こう書いていても、僕はモーツァルトのオペラ・セリアが嫌いな訳ではありません。リヒャルト・シュトラウスのオペラを聴くぐらいなら迷わずモーツァルトを選びます。ただ単に、同時代の他のオペラ作曲家の作品と比べると著しい実力の差を感じる、というだけの話です。誤解なきようお願いいたします。
それから、「音符が多い音楽が優れている」というような話は僕は何一つ書いておりませんので、再度読み返してみて下さい。

最後ですが、ハルさんが、発言機会の付与という点で終始公平であろうとされた点に、公共意識の高さと勇気を感じると共に、深く感謝したいと思います。有難うございました。

投稿: 花鳥 | 2012年4月25日 (水) 22時38分

花鳥さん、誠に詳しいご説明を頂きましてありがとうございました。

花鳥さんのお考えが大分理解できてきたように思います。歴史考察的にも非常に参考になります。と同時に、自分の感覚とは、やはり距離の隔たりを感じてしまいました。

モーツァルトがたとえオペラ・セリアで不成功でも、あの「フィガロ」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」などの素晴らしい作品を生んだのは事実でしょう。これらが、同時代の他のオペラ作曲家の作品に劣るとすれば、信じがたいことです。同じように聴く機会を持ってはいませんので、これ以上は何も言えませんけれど。

ただ、リヒャルト・シュトラウスのオペラも、お好きな人には大変な魅力が有るのではないですか?僕は特別に好きなわけでも有りませんが、それぐらいは理解できます。要するに、どんな音楽も、価値の有る無しというのは、聴き手が変わればまた変わるものでしょう。自分が「好き」と思える音楽、演奏を楽しめばそれで良いと思います。「・・・・が好き」と言うのに、歴史上の作曲家の作品を全て聴きこなす必要性も無いでしょう。聴くか聴かないかはその人の自由です。リヒャルト・シュトラウスのオペラも、どこの誰のオペラも作品もですね。

投稿: ハルくん | 2012年4月25日 (水) 23時23分

ハルくん、はじめまして

内田光子とジェフリーテイト率いるイギリス室内管弦楽団の1988年録音(PHILIPS)で聴いています。
NHK「名曲探偵アマデウス」でK466がとりあげられてからK491も合わせて聴いています。
管弦楽法や音の語彙からいえばK491がベートヴェンの先駆といわれますが、構成と内容の点では、苦難(苦闘)と克服(勝利)の流れをもつK466の方が、ベートーヴェンの先駆としてふさわしいでしょう。
K491は、内容的にはマーラーの第6交響曲と同じ、苦闘と挫折の悲劇的英雄ととらえていましたが、構成に難があり、あるいは第一楽章のみで完結すべきであったアンバランスな実験的作品と視ることもできます。
いずれにしてもベートヴェンの第3協奏曲によってこれら2曲の良さが化合され、古典協奏曲の完成へと結実されたことは間違いないと思います。

投稿: 9 | 2012年9月 5日 (水) 08時58分

9さん、こんにちは。初めまして。

とても丁寧で詳しいコメントを頂戴しまして誠にありがとうございます。

内田光子/テイト盤のこの曲の演奏は聴いた覚えが有りませんが、内田さんは暗い曲には向いていそうです。

K466、K491いずれも大変な傑作ですね。個人的には、そのベートーヴェンのP協3番よりもずっと好んでいます。曲の展開が聴いていて予測できるベートーヴェンよりも、次の展開が予測出来ないモーツァルトのほうに、スリリングさを感じるからです。

また、何でもお気軽にコメントを下されば嬉しく思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

投稿: ハルくん | 2012年9月 5日 (水) 22時21分

ハルくんさん、こんばんは。
ワールドカップ中でも サッカーよりクラシック音楽という 私って………。(笑)
モーツァルトのピアノ協奏曲の記事が続いているようなので、私の 「隠し玉」 をひとつ……。
この第24番は 私もバレンボイムの旧盤が好きなのですが、それ以上に カーゾン/クーベリック盤が 大好きで カップリングの第21番と共に 私のベスト盤だったりします。
24番でのカーゾンは、クーベリックのシンフォニックでデモーニッシュな伴奏を受けて、決して声高にならず、しかし 豊かな表情を見せていて まるで 内へ、内へ と表現しているかのようです。
オケの バイエルン放送響も非常に美しいです。
これこそ 私の中の「第24番」です。

投稿: ヨシツグカ | 2014年6月20日 (金) 21時43分

ヨシツグカさん、こんばんは。

ワールドカップ中は、クラシック=サッカーというポジションになりますが、クラシックも聴いていますよー。

カーゾン/クーベリックは23番&27番が今一つだったので21番&24番は聴いていませんでした。でもそういえばケルテスと録音した24番は結構良かったような気も。確かに内省的な印象だったかもしれません。
ちょいと購入候補入りしておきます。ありがとうございました。

投稿: ハルくん | 2014年6月20日 (金) 23時49分

こんばんは。

ゼルキン&アバド盤
第1楽章のテンポの遅さに最初、抵抗を覚えるも
段々慣れていき、傾聴していきます。
第2楽章の美しさはなかなかです。
終楽章は力みはないのに力強さを感じさせます。

総じて、楽章を追う毎に良くなっていく名演だと感じました。

投稿: 影の王子 | 2014年10月 5日 (日) 20時16分

影の王子さん、こんにちは。

ゼルキン&アバドの演奏はユニークですがとても良いですよね。聴き終わった後の充実感が素晴らしいです。

投稿: ハルくん | 2014年10月 6日 (月) 09時30分

この曲は第3楽章のコーダをどのように演奏するかによって印象がまるっきり変わると思います。手許にルビンシュタインとブレンンデルのニ種がありコーダの部分が真逆なのでどっちがモーツアルトらしいのか悩んでしまいます。ブレンデルの方が今様なのかな?

投稿: k | 2014年10月 6日 (月) 20時03分

Kさん

第3楽章は二拍子でキリリと引き締まっていたのが最後に6拍子に変わって”拍子抜け”しますが、ここでの演奏が全体の印象を変えるほどには感じていません。けれども演奏家にとっては終わり方の難しい曲だなとは思いますよね。

投稿: ハルくん | 2014年10月 8日 (水) 23時57分

こんばんは!

ラン・ランのピアノ、アーノンクール指揮ウィーン・フィル盤は
2014年4月14日~17日の収録とあり(併録は17番)
ライブの記載が無いのと、写真を見るとセッション録音みたいです。
録音は大変良いです。

指揮者主導の演奏と思いますが
最強奏するオケにピアノは負けてません。
アーノンクールのは古楽器オケだと耳を塞ぎたくなりますし
もし、これがそうならまさしくですが、ウィーン・フィルの音色が
それを救っています。やはり、ウィーン・フィルは素晴らしい!
第2楽章がとても美しいです。曲への感動を新たにしました。

「ウィーン・フィルのモーツァルトのピアノ協奏曲」
の特集はいかがですか?
この曲にはプレヴィンの弾き振りがあった気がします。

投稿: 影の王子 | 2017年12月25日 (月) 17時13分

影の王子さん、こんにちは。

アーノンクールは10年近く前にウィーン・フィルの来日公演でモーツァルトの39番とベートーヴェンの8番を聴きましたが良かったです。随所にこだわりが有りましたが違和感は感じなかったです。

プレヴィンの弾き振りは24番と17番でしたね。CDを持ってはいませんが良いらしいです。

投稿: ハルくん | 2017年12月27日 (水) 10時00分

僕もモーツァルトは一通り聴きましたが、toraさんと同じくKV491がモーツァルトの最高傑作だと思います。ドンジョバンニ的な短調とのコントラストにより、モーツァルトお得意の貴族が好む長調の爽やかさが更に際立ち、「芸術の中の芸術」とはブラームスがよく言ったものです。木漏れ日のように、のどかなラルゲットを経て、メランコリックに始まり斬新に展開する変奏もロココ芸術の極みでしょう。
しかし、一方で、ハルさんにも一部同意です。KV595には、晩年の衰えが感じられる痛々しさは否めないのですが、歌心も垣間聴こえるのです。
結論としては、モーツァルトの聴き方としては、toraさんの方がブラームスの境地に近いと思いますが、ハルさんにもシューベルトに通じる歌心があり、お互いに学ぶ点があったと思います。
ちなみに、ヴィオッティの22番はブラームスが最も高く評価するVnコンなので、これに感動できるかどうかは、音楽性を測る一つの基準ではあります。
ハルさんの意見を堀り下げるなら、モーツァルトは、オペラの心をKV491に昇華できたという点で真の意味で最高のオペラ作曲家と言えるでしょうね。確かに、ドニゼッティのルチアなどオペラ自体の名作は枚挙に暇がありませんが。
ハルさんの聴き方は決して間違いではないですが、ブラームスというより、シューベルト寄りかな?

投稿: 伊藤潤二 | 2018年2月25日 (日) 21時53分

伊藤さん、こんにちは。

随分以前の書き込みにまで目を通して頂きありがとうございました。

「最高傑作」という言葉は滅多に使いたくは無く、ましてモーツァルトのそれであれば尚更です。ドンジョヴァンニとフィガロ、魔笛のどれが最高だという議論は不毛だと思うからです。

私はブラームスとシューベルトのどちらをより好きかと尋ねられたらブラームスと答えますが、しかしモーツァルトのピアノ協奏曲であれば24番よりも22、23、27番の方が好きですね。音楽の聴き方には「正しい」や「間違い」は無いと思います。

投稿: ハルくん | 2018年2月26日 (月) 11時57分

確かに、最高傑作という表現に慎重な気持ちは分かります。最近の若者は最高とか一番という言葉をやたら使いたがる傾向がありますから。
ただ、ブラームスやメシアンなど、プロの聴き方や評価の仕方は、大いに学ぶべきだと思うのです。
その上で、自分の意見を述べるのが説得力があると思います。
メシアンはKV453をブラームスはKV491を絶賛してますが、両者の最大の聞き所は、やはり転調部分ではないでしょうか?
つまり、KV491の場合、短調に支配されている中で垣間聴こえる長調が特に感動的だと思うのです。
作曲家の表現意図、コンセプトを理解する上で、転調に着目するのは、極めて有効です。

少なくとも、クラシックの鑑賞では基本でしょう。
モーツァルトのように転調が美しい作曲家は特に。

それでは、何故、KV453よりもKV491を高く評価するのかというと、例えば、後者の方が、曲調が大きく変わる時の転調後のメロディーが楽譜を精読しなくても分かりやすいからです。そして情緒的にも共感できるんです。感動的できるんです。
KV491は、感動的な長調のメロディーも聴ける、貴族達への最後の予約演奏会に相応しい傑作でしょう。
ベートーベンをして、我々には書けないと言わしめたのですから、最高傑作と言っても過言ではないです。

まあ、KV595もロココ風で可憐で歌心ある曲だと思いますよ。
ただ、ショパンやメンデルスゾーンもそうですが、たまに、晩年の疲れが彼らの作品に感じられるのです。

投稿: 伊藤潤二 | 2018年2月26日 (月) 15時37分

情緒的に深く共感できるかどうか、
それは、モーツァルトの作品とその人間性を理解する上で極めて重要なことです。
私は、KV453の鮮やかな転調後のメロディー構成については、楽譜を精読して初めて理解しました。
というか、絶対音感を持ってない多くの人は、そのような、ちょっとした手間が必要だと思います。
ただ、そのメロディー構成のカラクリを理解してしまうと、ちょっと正直、飽きてきたんですよね笑
子供の頃、散々聴いたKV466やKV488と同じように。この2曲は、もはや神格化できない。
その点、KV491は、情緒的に深く共感でき、人間ドラマが感じられる音楽です。
まあ、楽譜を精読せずに理解できる意味では、KV491やKV595は共に良心的な作品だと思います。
共に長調のメロディーに感動したという点では、我々は同志です。晩年のブルックナーとブラームスみたいな?笑
ハルさんは、KV595にブラームスの間奏曲みたいな潔さを感じたんですかね?
私は、KV491に太宰治の人間失格のような過酷な運命の中にも一筋の希望を見いだそうとする人間ドラマを感じました。それが印象的な長調のメロディー!

投稿: 伊藤潤二 | 2018年2月26日 (月) 16時22分

伊藤さん、こんにちは。

色々と興味深いご意見をありがとうございました。私もK491は大傑作だとは思っていますよ。少なくともK453では比較にならないと思います。それにベートーヴェンの3番よりも遥かに好きですし。

>ハルさんは、KV595にブラームスの間奏曲みたいな潔さを感じたんですかね?

そうですね。近いのかもしれませんね。自分もいずれはそんな心境に益々なるような気がしますね。

投稿: ハルくん | 2018年2月26日 (月) 16時37分

モーツァルトの作曲技法はKV452で完成したと思います。そこからは、いかに人間ドラマを構築できるかでしょう。個人的には、それはドンジョバンニの続きを描いたようなKV491で頂点に達したと思います。

最高傑作と言われる所以が、そこにあるのでは、と。

KV491の凄さ…それは、いきなりドンジョバンニのクライマックスのような始まりに端的に表れています。繊細に美しくピアノが第一主題を確保し、感動的な長調への転調を経て、後半部、第一主題が再現されると、ピアノの右手と左手がオペラのように掛け合い、オーケストラは感極まり、トリルで情感の炎を上げる。そして、回想的で果てしない余韻を残すような終わり方。のどかなラルゲットはモーツァルトの菩提樹だと思います。実に楽しげな、ほのぼのとした終わり方に癒やされます。至福の時。最後の変奏曲は、バッドエンドでオペラの慣例から敢えて外れ、おどけながら地獄の嘲笑の中で終わる所が、まさにドンジョバンニ的でしょう。メランコリックな第一変奏の美しさこそが救いなのです。音楽は、構成云々よりメロディー自体の美しさが大事ですからね。
芸術は理屈より感性の世界なので、結局はメロディー自体の美しさや抒情性が第一だと思います。

なので、感動とは、なにも押しつけるものでもないのです。
私はtoraさんと違い、KV595のシューベルト的な歌心も評価いたします。モーツァルト万歳。

投稿: 伊藤潤二 | 2018年2月27日 (火) 18時43分

追記
もし私がKV491のカデンツァを作るとしたら、前述の転調後の感動的な長調の部分をメインにすると思います。
KV491は、フンメルのカデンツァが最も高く評価されているらしいですね。ブラームスはKV453、466、491にカデンツァを残しており、サンサーンスはKV482にカデンツァを残していて、各作曲家の好みが表れていて面白いと思います。

投稿: 伊藤潤二 | 2018年2月28日 (水) 01時26分

伊藤さん、こんにちは。

本当にK491への思い入れがお強いのですね。素晴らしいです!

K595の持つ、まるで彼岸にたどり着いたような雰囲気はシューベルト作品といえどもそうそう多くは無いように思います。
自分がいずれそこに近づいた時に聴きたくなるのはやはりK595あるいはK622なのだと思います。

投稿: ハルくん | 2018年2月28日 (水) 12時45分

お久しぶりでございます。
こちらのコメント欄を読んで驚いております。過去にこんなにヒートアップしていたのですね!
モーツァルトの第20~27番8曲のピアノ協奏曲は私の中ではどれも同じ位素晴らしく好きな曲ばかりです。完璧に同じではありませんが。時々他よりも一段低く評価されることがある第26番を含めてです。(ペライアの第26番は表情の変化が非常に美しいと感じます。)ベートーヴェンの第4番と第5番、ブラームスの第1番と第2番とは個性も違うので比較するべきものでないことは分かります。しかし、それらを含めても個人的にはこれら8曲はとても魅力的です。
くれぐれも皆様方におかれましては、私は難しいことは分かりませんので、ツッコミを入れないようにお願いいたします。第24番と第27番のどちらが優れているとか、魅力的だとか、好かれるかとか全く分かりません。
最後に、私は「モーツァルトが大好きです。」

投稿: スカーレット | 2020年4月 5日 (日) 15時06分

スカーレットさん、こんにちは。

過去記事をご覧になりましたか。
そんな時期もありましたね。今ではこんなに熱い方はおられないので気が楽です(笑)

モーツァルトのピアノ協奏曲20番以降は本当に傑作揃いなのですが、第1番から全曲が名曲だと思います。その充実度は交響曲の全曲よりも遥かに上です。ぜひお聴きになられてください。

投稿: ハルくん | 2020年4月 6日 (月) 12時53分

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