J.S.バッハ(器楽曲:弦楽器)

2012年4月 5日 (木)

J.S.バッハ 「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」BWV1001~6 名盤 ~奇跡の音楽~

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”大海のごとく偉大なバッハ”(ベートーヴェン談)の最高峰作品は「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ロ短調ミサ曲」であるとしても、僕がかねがね奇跡の音楽と思っているのは「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ集」です。あの小さな楽器のヴァイオリンたった一台のために書かれた曲集であって、鍵盤楽器の伴奏も何も有りません。それが、大編成の声楽曲や交響曲にも負けないほどの大きな音空間を創り上げます。それは正に宇宙的なまでの広がりを持っています。これこそは奇跡以外の何物でもないと思います。

この曲の凄さを知ったのは、今から30年以上も前の僕がまだ20代の頃です。東京文化会館にヘンリク・シェリングのヴァイオリン・リサイタルを聴きに行きましたが、その日の演奏曲目にバッハの無伴奏パルティータの第3番が含まれていました。演奏が始まると、それまで聴いたことも無いような美しい響きが、あの大きなホール一杯に響いてゆきました。演奏するシェリングの身体には少しも力みが無く、一見すごく軽く弾いているのですが、ふわりと自然に広がっていく音に、客席全体が包み込まれてしまいました。僕が聴いていたのは最上階5階のサイドなので、シェリングは見下ろすステージの上で弾いているのですが、音はまるで大きなホールの空間がそのままヴァイオリンになってしまったかのように感じられました。それは、あたかも大きなヴァイオリンの箱の中で聴いているかのような感覚なのです。ヴァイオリンのコンサートを聴きに行って、こんな感覚を持った経験は後にも先にもこの時だけです。恐らくは、バッハの音楽とシェリングの演奏が組み合わさって、初めてこのような現象が起こるのだと思います。この時の来日公演では、別の日のコンサートがTDKからライブCDとして出ていますが、あの体験は実際の会場で無ければ味わえないものだと思います。

要するに、この曲は、”音楽の神様に選ばれし者”に演奏されたときには、とてつもない音楽になってしまうのです。

この曲はバッハの自筆譜において3曲のソナタと3曲のパルティータが交互に配列されています。

1.ソナタ第1番 ト短調 BWV1001
2.パルティータ 第1番 ロ短調 BWV1002
3.ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
4.パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
5.ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
6.パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006

最も良く知られているのは、パルティータ第2番の終曲の「シャコンヌ」です。その長大な変奏曲は、パイプオルガンにも匹敵する巨大な音空間を想わせます。
そして曲集で重要な肝となるのが各ソナタに置かれたフーガです。フーガが果たしてヴァイオリン1台で演奏することが出来るものだろうかと、曲を実際に聴く前までは不思議でなりません。しかしいざ聴いてみれば各ソナタのフーガは実に堂々たるもので、多声部が次々と追いかけ合って行く様は、これをたった4本の弦と1本の弓で演奏しているかと思うと驚愕するばかりです。
もちろんヴァイオリンは基本的に同時に二つの音(重音)しか出すことができませんので、三重音以上は分散和音のように弾きます。それをオルガンのように聴かせるわけですから、演奏も至難を極めます。音程と弓使いが完璧でないと音楽になりません。しかも単にテクニックだけで片付けられるような浅い内容の音楽ではありませんので、いよいよ演奏家には多くのものが要求されます。

いずれも第2楽章にフーガを置く4楽章構成のソナタも素晴らしいですが、古典舞曲を元にした短い曲を多く並べたパルティータの魅力も絶大です。第3番の「ブーレ」などは楽しさの極みですが、一方で第2番の「シャコンヌ」のような長大な楽曲も存在します。

いずれにしても、この「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」こそは、バッハの究極の器楽曲だと思います。

それでは僕の愛聴盤のご紹介です。

6c592408cbd172778c635c24b9b8e558ヘンリク・シェリング(1967年録音/グラモフォン盤) 昔から定盤と呼ばれている演奏です。本来はアナログ盤で聴くのが一番ですが、不公平になるのでCDで聴き比べることにします。実演での音空間は体験できなくても、家で聴くには充分美しいです。シェリングのベートーヴェンやバッハは、何ら大げさなことをしていないのに何故これほど音楽の偉大さを感じるかというと、基本は技術です。特筆すべきは音程の完璧性です。それは実演の場合でも全く変わることがなく、他の誰のスタジオ録音よりも音程が確かで、一音たりとも外すことが有りません。その結果、重音、アルぺッジオが非常に美しく響きます。まるでオルガンのような響きを感じさせる奏者が他に居たでしょうか。その為には、ボウイング(弓使い)のなめらかさも不可欠なのですが、この人はほぼ晩年まで衰えることが有りませんでした。技術的な難所にあっても微動だにしないテンポの安定性も特筆されます。結果として、フーガでの構築性や立派さは比類が有りません。演奏家としての自分を表に全く出さないので、一聴すると個性が無いように感じるかも知れませんが、それは間違いであり、シェリングはバッハの偉大な音楽を完全に演奏しようとするからこそ、そこに演奏家の矮小さを介在させないのです。この曲の計り知れない大きさや凄さを最も感じさせてくれるのは、やはりこの演奏です。

Swscan00106ヨハンナ・マルツィ(1954年録音/テスタメント盤) 原盤はEMIですが、古いアナログ盤が希少のために、中古市場で驚くほどの高値を呼んだことで有名です。それが今では普通にCDで聴くことが出来るのが嬉しいです。彼女の音を聴いていて、なぜか連想してしまうのがピアノのリパッティの音です。派手さは無いのですが、純朴でとても美しい音です。技術的にも安定しているので、重音が美しく響きます。演奏スタイルも良く似ていて、誇張や派手さは全く無いのですが、深く心に染み入ってきます。何よりも音楽に「祈り」を感じさせるのが素晴らしいです。この敬虔な雰囲気の中に、いつまでも浸っていたくなる感覚というのはそうそう有るものではありません。とはいえ曲によっては相当な気迫を感じさせます。フーガの演奏も実に素晴らしく、彼女はやはり凄いバイオリニストだったと思います。テスタメントのリマスターには充分満足していますが、本家のEMIからもボックス盤で出ています。

398ヨゼフ・シゲティ(1955-56年録音/ヴァンガード盤) シゲティは偉大なヴァイオリニストだと思いますし、この人の弾くブラームスなどは感情表現の深さに涙が止まらなくなるほど感動させられます。このバッハの演奏もやはり同様のスタイルであり、大きなヴィブラートやポルタメントを遠慮なく用いて情緒的に強く訴えかけます。「シャコンヌ」などはそれが痛切なほどです。いささか古めかしさを感じますが、その真実味を帯びた人間性溢れる表現は比類が無く、好き嫌いが分れるところだと思います。重音や、スタッカートの音に気迫がこもり切っているので音に荒さを感じますが、これぞシゲティの本領発揮でファンには気にならないでしょう。昔はともかく、今では広く一般にお勧めするべき演奏ではないのかもしれませんが、同じハンガリー出身でもマルツィとまるで異なるタイプの名演奏として大切な存在です。

Ym449ユーディ・メニューイン(1956-57年録音/EMI盤) 子供のころから「神童」ともてはやされたメニューインは、ある専門家によれば、デビュー前にマスターしておかなければならないヴァイオリニストとしての基礎技術が欠けていたそうです。それでは大人になってからは、豊饒な音も持たず、確かな技術も無いとなると、何が特徴かということになりますが、月並みな表現ですが、この人には「精神」が有ったと思います。この演奏も、聴き始めは音程の不安定さと汚い音に耳を覆いました。第1番のフーガなどは、「のこぎりを引いているのではないか」と思ったぐらいです。ところが聴き進むうちに、それでもバッハの偉大な音楽に真正面から必死で立ち向かう姿が浮き上がってくるのです。それは、燃えさかる炎の中に人を助けに飛び込んでゆくような、人間の意思を超えた何か壮絶なものを感じずにいられません。決してリファレンスの演奏にはなり得ませんが、「凄いものを体験した」という聴後感は、ことによるとシゲティ以上かもしれません。しかしこれは誰にでもお勧めできる演奏ではありません。

51j21715r8l__sl500_aa300_ナタン・ミルシテイン(1973年録音/グラモフォン盤) 昔から、(シゲティは別にして)シェリングと並ぶ定番なのは知っていましたが、実は聴いたのは今回が初めてです。シゲティほどに激しく楽器を痛めつけませんが、その気迫はかなりのものです。技術も鮮やかですし、演奏に非常に切れが有ります。基本的にはロマン派の演奏スタイルなので、音楽の形式が自由で舞曲を多く含むパルティータのほうが適していると思います。事実、非常に素晴らしいです。ソナタも情感深く歌わせるアダージョやシャコンヌは素晴らしいと思いますが、フーガ楽章で音が次々に重なって巨大になってゆく造形性はシェリングほどには再現できていません。重音の和音の美しさも、やはりシェリングには一歩譲ります。とは言え、やはり一つの時代を画した、非常に存在感の有る名演奏だと思います。

4110080336カール・ズスケ(1983-88年録音/シャルプラッテン盤) ズスケは、実演ではカルテットでしか聴いたことは有りませんが、非常にしなやかで美しい音でした。このバッハもドレスデンのルカ教会の響きと相まって、非常に美しい音を聴くことが出来ます。ユニークなのは、聴き手に聴かせようという意思が希薄で、ひたすら自己の内面に向き合っているかのように内省的な演奏です。自分の魂との対話・・・そんな印象なのです。技術的には、フーガ楽章などでポリフォニーが充分に再現できているかというと少々難しいといころですが、細部にこだわらず全体を通して聴いていると、いつの間にか惹き込まれてしまいます。

ここで古楽器派についても上げておかないわけには行きませんね。

Bach___sl1259_シギスヴァルト・クイケン(1981年録音/独ハルモニア・ムンディ盤) 古楽器派の代表的な奏者としてはやはりクイケンが上げられそうです。1700年製のストラディバリウス「ジョヴァンニ・グランチーノ」を使用していて、これはバロック・ヴァイオリンによる全曲録音の先駆けの一つです。以前は古楽器の音を「干物の魚」のようにどうも貧相に感じましたが、最近ではやはりこのような音がバロックには合うのかなと思うようになりました。確かに無心で耳を傾ければ、アダージョなどの遅い曲では素朴な音色と落ち着いた歌い回しとが相まってとても懐かしさを誘い魅了されます。けれどもフーガのような難しい部分となると演奏の完成度はまだまだ低く、正直聞き苦しさを感じてしまいます。クイケンには二度目の再録音も有りますのでそちらに期待をしたいところです。

971モニカ・ハジェット(1995-96年録音/EMI盤) 女流のハジェットもトン・コープマンと一緒にアムステルダム・バロック合奏団を結成して途中までコンミスを務めてみたり、まだ10代だった1970年頃からバロック・ヴァイオリンを弾くという筋金入りの古楽器奏者です。その後大勢の奏者が出てきましたが、この人の演奏は一味違うと思っています。40代に録音したこの「無伴奏」は楽しめます。ズスケが自分の魂との対話だとすれば、ハジェットは、さしづめ名女優です。表情が豊かで雄弁に演奏していますので、下手をすると単に姑息な演奏に陥ってしまいそうですが、そうはならずにバッハの音楽の別の面を語り尽くしています。まるで、英国のシェイクスピア俳優の台詞を聴いているみたいです。そういえばハジェットもイギリスの出身でした。アマティ制作の1618年クレモナのヴァイオリンの素晴らしい音が優秀な録音で楽しめるのも魅力です。

もちろん、これ以外にも魅力的な演奏があるとは思いますが、シェリングの演奏を大本命として、マルツィを次点、シゲティ、ミルシテインを外せない演奏だと思っています。

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