ベートーヴェン 「ミサ・ソレニムス(荘厳ミサ曲)」Op.123 名盤 ~心より出で、願わくは再び、心に入らんことを~
ベートーヴェン生誕250年記念、今回は「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」です。
これは、ベートーヴェン自身が「私の最高傑作」「精神の最も実り豊かな所産」と自負した晩年の大作ですね。
曲が書かれたきっかけは、ベートーヴェンの最大のパトロンでピアノと作曲の弟子でもあったルードルフ大公が大司教に就任することになり、大公のためにミサ曲を献呈することを申し出たからです。
しかしその就任式までに完成したのはキリエとグローリアまでで、式典には別の作曲家のミサ曲が用いられました。間に合わなかったのは決して筆が進まなかった訳では無く、その逆で次から次へと多くの楽想が湧いてきて、どの楽章も予定より遥に長くなってしまったからだそうです。
その後もベートーヴェンは夢中で作曲を続け、ついに2年半後にこの曲を完成します。楽譜の発行前に筆写譜を販売することを思いついたベートーヴェンは、諸国の王侯や音楽団体に手紙を送って宣伝します。手紙には「このミサ曲はオラトリオとして用いることができます」と記されていました。伝統的なミサ曲から踏み出して、当時の流行りであった慈善演奏会などでオラトリオとして演奏して貰いたいという考えが有ったようです。当時各地に設立されていた合唱協会を通じて広く演奏されるためには「オラトリオ」のタイトルの方が適していたからでしょう。ただ、初版譜の表紙には「オラトリオ」とは記載されず、「ミサ・ソレムニス」とされました。結局は、このタイトルで世に浸透していきます。
初演が行われたのは 1824年の サンクト・ペテルブルクで、筆写譜を購入したロシアのガリツィン侯爵の主催によるフィルハーモニー協会の慈善演奏会でした。その時には「オラトリオ」として公演されました。ガリツィン侯爵はのちに弦楽四重奏曲の作曲を依頼するほどのベートーヴェンの熱心なファンでした。
のちにリヒャルト・ヴァーグナーはこのミサ曲の偉大さを認めますが、それは教会音楽としてではなく、交響曲様式で書かれた大作の一つとみなしました。「かの偉大なミサ・ソレムニスにおいて、われわれは最も純正なベートーヴェン的精神をもつ純交響曲的な作品を見出すのである。」というように述べています。
ベートーヴェンの音楽の最大の特徴として「革新性」が上げられるでしょうが、このミサ曲においても、それまでには無かった新しい宗教音楽が生み出されました。モーツァルトの宗教曲のようなチャーミングさこそ有りませんが、ベートーヴェンの正に革新的な傑作です。
もっとも、ある人が「ミサ・ソレニムスは、ことによると第九以上かもしれない」と言いましたが、この曲を交響曲第9番と同じディメンションで語るのは少々飛躍し過ぎかと思います。純粋に器楽的に書かれている第九と、このミサ曲を比較すること自体には無理が有りそうです。しかし、比べたくなるその気持ちも分かります。
ベートーヴェンには壮年期の作品に「ミサ曲ハ長調」Op.86も有り、それは幸福感に溢れたとても美しい曲ですが、従来の教会音楽の枠組みから決して抜け出たものではありません。
「ミサ・ソレニムス」の構成は以下の通りです。
キリエ(Kyrie) 3部形式。神に憐れみを乞う祈りが荘厳に歌われます。キリエの楽譜冒頭部には、あの有名な『心より出で、願わくば再び、心に入らんことを』という言葉が記されています。
グローリア(Gloria) 6つの部分から成り、神の栄光が賛美されます。
クレド(Credo) 3部形式。神への信仰、イエスの生誕と受難、復活が力強く歌われます。
サンクトゥス(Sanctus) “Sanctus”と“Benedictus”から成る敬虔な祈りと神秘的な音楽。Benedictus”では独奏ヴァイオリンが非常に印象的で心が洗われます。
アニュス・デイ(Agnus Dei) 3つの部分から成り、平和への祈りが歌われます。
それでは愛聴盤のご紹介です。またしても往年の巨匠ばかりに成りますがご容赦のほどを。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC響/ロバート・ショウ合唱団(1953年録音/RCA盤) トスカニーニが指揮するベートーヴェンの交響曲と同じように、速いテンポで強靭なリズムと明晰性を持ったシンフォニック極まりない演奏です。従ってワーグナーの述べた“最も純正なベートーヴェン的精神をもつ純交響曲的な作品”という解釈が見事に当てはまります。鬼神トスカニーニによる正に“入神の演奏”だと言えます。モノラルですが録音は優秀で、管弦楽と合唱を明確に捉えています。
カール・ベーム指揮ベルリン・フィル/ベルリン聖ヘトヴィヒ合唱団(1955年録音/グラモフォン盤) 壮年期のベームはいかにもプロシア的な厳格さと強靭な造形性を保ち合わせて聴き手に迫りました。ベルリン聖ヘトヴィヒ合唱団の感動的なコーラスには心の底から圧倒されます。当時のドイツ的な音色のベルリン・フィルも素晴らしいですが、ベネディクトゥスのヴァイオリンソロを弾くフルトヴェングラー時代のコンサートマスター、ジークフリート・ボリスの音が何と心に染み入ることでしょう。これこそ「心より出で、心に入らん」音です。モノラル録音なのは残念ですが、年代としては優れています。
カール・シューリヒト指揮北ドイツ放送響/ベルリン聖ヘトヴィヒ合唱団(1957年録音/archiphon盤) スイスのモントルーでの公演のライブです。モノラルですが録音は音質、バランス共に良好で嬉しいです。ベームのような造形の堅牢さは感じませんが、北ドイツ放送響もまたドイツ的で重心が低く立派な響きです。ベームと同じヘトヴィヒ合唱団の真摯で敬虔な歌声がここでもやはり素晴らしいです。シューリヒトの少しも威圧的でなく、しかし心にじわりじわりと染み入るような指揮ぶりは流石です。
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管/合唱団(1965年録音/EMI盤) 堂々としたインテンポで一貫した正に“荘厳”の名に相応しい演奏です。昔からこの曲の定盤として、クレンペラーの名が挙げられますが、実はこの演奏の貢献者は合唱指揮をしたヴィルヘルム・ピッツです。この人無くしてこの名演は生まれませんでした。それぐらい立派で感動的な合唱です。しかしオーケストラの随所での意味の深さも同様に最高です。欠点は強音で幾らか音割れを起こす録音です。このころのEMI録音は音が不明瞭、強音はざらつく、と良いところが有りません。ですので、これをベストワンとするのには躊躇しますが、複数のディスクを購入される場合には必ず含めて頂きたいと思います。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル/ウィーン国立歌劇場合唱団(1966年録音/グラモフォン盤) カラヤンはこの曲に強い思い入れがあるらしくレコーディングを4度行いましたが、これは第二回目のものです。合唱と管弦楽の録音バランスが入念に取られていて、特にオーケストラがレガート気味で美しく表現豊かに奏するのがユニークです。シュヴァルベのヴァイオリンソロも大変美しいです。これはこれでワーグナーの「純交響曲的な作品」という解釈に適合した演奏だとも思います。ですので、敬虔な祈りの宗教的な雰囲気とは異なりますが、とにかく壮麗なまでの美しさを感じます。
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送響/合唱団(1966年録音/THARA盤) ライブ演奏ですがステレオ録音されていて音質も自然な広がりが有り優れています。このマエストロらしい虚飾の無い、しかし堂々とした聴き応え充分の素晴らしい演奏で、同じ北ドイツ放送響とのあの「第九」の名演を彷彿させます。オーケストラのドイツ的で底力のある響きは言うまでもありませんが、合唱の立派さが際立ちます。放送合唱団ですが、これほどの合唱は中々聴けないと思います。ALTUSが復刻リリースしましたので入手もし易いですし是非とも聴いて頂きたい名盤です。
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル/国立歌劇場合唱団(1974年録音/グラモフォン盤) ‘55年録音のベームの旧盤と比べると、ゆったりと落ち着いた感が有ります。壮大さに圧倒される趣とは異なり、神の深い慈悲を感じさせるような印象です。それにはセッション録音だということも影響したかもしれません。しかし決して気が抜けているわけでは無く、Gloriaでは、しっかりと生命力にあふれた躍動感を感じさせます。Credoはスケールが大きいです。ウィーンの合唱には、しなやかな美しさを感じますが、爆発力においては僅かながら物足りなさを感じます。
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送響/合唱団(1977年録音/ORFEO盤) ミュンヘンでのライブ演奏です。同じレーベルから出ている「第九」が非常に白熱した演奏でしたので、同じような演奏を予想しますが、それに反して意外なぐらい大人しさを感じます。初めは期待外れかと思いますが、聴き進むにつれて、敬虔で滋味豊かな合唱の美しさに次第に惹きつけられてゆきます。実はこの演奏が一番“宗教オラトリオ“を聴いているような気がするかもしれません。バイエルン放送協会による録音も大変優秀です。
レナード・バーンスタイン指揮ロイヤル・コンセルトへボウ管/オランダ放送合唱団(1978年録音/グラモフォン盤) 合唱もオーケストラもとても美しいです。録音も優れています。ところが意外と強い感銘を受けません。「神の世界に少しでも近づくのだ」というような敬虔さやひたむきさにどこか欠けているように感じられてしまいます。ですので、あの名コンサートマスターのヘルマン・クレヴァースのヴァイオリンソロさえも余り感動しません。これは自分の耳がおかしいのかと自信が無くなるほどですが、どうしても心に入らんのですね。
さて、そこでマイ・フェイヴァリット盤ということになりますが、ずばり個人的な趣味でハンス・シュミット=イッセルシュテット/北ドイツ放送響を上げたいと思います。次点はクレンペラー盤、それにベームの新旧両盤でしょうか。さりとてトスカニーニ盤、カラヤン盤にも後ろ髪を引かれます。
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