ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135 名盤 ~ようやくついた決心~
ベートーヴェンが書いた最後の弦楽四重奏曲であり、書き換えを行なった第13番の終楽章を除いては、生涯最後の作品です。
第13番以降の作品では曲毎に楽章の数を増やしていきましたが、この曲ではそれをやめて、再び4楽章の形式に戻しました。従って曲の規模が小さくなったことと、曲想全体も非常に力が抜けて穏やかなものに変化しています。何か「解脱」「解放」という雰囲気が感じられます。それでいて、多くの所で非常に斬新な音や響きを織り交ぜますので、新鮮さも感じられるという極めてユニークな作品です。この曲が第13番から第15番までの3曲以上の名曲かと問われれば「イエス」とは答え難いですが、少なくとも同じ後期では第12番以上の内容であるのは間違い有りませんし、むしろ順位にはこだわりたくない、特別な立ち位置に立つ作品です。その価値を理解出来るようになるには、前作までをとことん聴いてきてからだという気がします。
第1楽章 アレグレット
前作、前々作の息苦しさから解放されたような軽やかな主題の楽章です。けれども随所に晩年の作品らしい奥深さが感じられます。
第2楽章 ヴィヴァーチェ
シンコペーションのリズムが印象的ですが、部分部分にとても新しさを感じます。
第3楽章 レント・アッサイ・カンタンテ・エ・トランクィロ
人生の余韻に心静かに浸るような深い味わいが有ります。演奏によっては第九のアダージョを連想させます。
第4楽章 グラ―ヴェ・マ・ノントロッポ・トラット~アレグロ
ベートーヴェンはこの楽章の標題に”ようやくついた決心”と付けています。また、自筆譜の終楽章導入部分に”そうでなければならないのか?”と記し、続くアレグロの主題同機には”そうでなければならない!”とに謎めいた言葉を書き記しました。その意味には多くの研究家が説を唱えていますが、確かなことは分っていません。どちらにしても「葛藤」から「決心」へと心が切り替わり、解放感に浸った素晴らしい楽章です。この解放感は、次に書く第13番の新しい終楽章にも続いています。そのことを理解して曲を聴くと面白いことこの上ありません。
それにしてもルードヴィッヒくんは一体何の決心をつけたのでしょうね。音楽?金?女?果たしてなんだろう・・・。
それはさておき、僕の愛聴盤のご紹介です。ブッシュ弦楽四重奏団(1937年録音/EMI盤) 極めてレトロで懐かしい雰囲気の演奏です。第二次大戦後の演奏家からはこれほどまでに人間的な演奏は聴くことが出来ません。非常に深い味わいに満ちています。もっとも現代の耳からすると、ポルタメントの使用が余りにも過剰であり、これが一番好きだと言うわけでは有りません。何度か書いていますが、個人的にはアメリカに移住した後の1940年代の演奏スタイルを好んでいます。とは言え、これは歴史的演奏ということで一度は聴いておくべきだと思います。
バリリ弦楽四重奏団(1952年録音/MCAビクター盤) ウエストミンスター録音です。ブッシュSQほどはレトロでは無く、ずっと現代的だと言えます。それでも、この甘く柔らかい歌い回しは、かつてのウイーンの味わいに他ならず極めて魅力的です。穏やかなこの曲の良さを一杯に引き出しています。確かに、この曲は余り肩に力を入れて熱演されると逆に良さが失われる可能性が有りそうです。3楽章の懐かしい情緒の深さにも言葉を失うほどです。もちろんモノラル録音ですが、鑑賞に支障は感じません。
ブダペスト弦楽四重奏団(1960年録音/CBS盤) 全集盤です。演奏の密度の高さと残響の少ない録音が、嫌でも耳を集中させるので、第14番のような曲では絶大な魅力を発揮しますが、この曲では幾らか聴き疲れをしてしまう感が無きにしも非ずです。大曲の14番、15番の延長線上のような聴き応えを感じるので凄いとは思うのですが、個人的にはもう少し心穏やかに聴いていたくなります。
ジュリアード弦楽四重奏団(1969年録音/CBS盤) ジュリアードの旧全集からです。昔LP盤で聴きましたが、その時は味気の無い演奏に感じて手放してしまいました。ところがその後の新盤は非常に味が濃く気に入っているので、旧盤ももう一度聴き直してみたくなり最近購入しました。ですので第16番からの登場です。確かに精緻でメカニカルではありますが、決して無機的な演奏では有りません。それどころかロバート・マンのヴァイオリンがやはり凄いです。単に上手いだけでなく、大きな音楽を持っているのを感じます。もちろん4人の音の重なり合いも美しく、ニュアンスの豊かなことは驚くほどです。3楽章では大きく歌わせずに、ピアニシモで神秘的な響きを造ってゆくのがユニークで素晴らしいです。
ヴェーグ弦楽四重奏団(1973年録音/仏Naive盤) 全集盤です。驚くほど枯れきった演奏です。表現意欲は全て内側へ向けられていて、外面的に「聴かせよう」という意思は皆無に感じられます。何事からも「解脱」したような雰囲気は「彼岸」の世界にも通じて、この曲の本質から遠いとは思いませんが、ここまで枯れられてしまうと、まだまだ俗世の煩悩から解脱できない自分としては、聴いていて無条件には楽しめません。あと20年もしたら、この演奏にもっと同化出来るのかもしれませんが。
ラサール弦楽四重奏団(1976年録音/グラモフォン盤) 後期四重奏曲集です。余り「解脱」だとか「彼岸」などと余計なことを考えずに聴いていて非常に楽しめる純音楽的な演奏です。リズムに躍動感が有りますし、アクセントも気が利いています。ハーモニーの美しさも抜群です。4つの楽器の重なり合いは意外にシンフォニックで、幾らか表現が過多なほどですが、ベートーヴェンの最後の大作の新しさ、面白さを再認識させてくれること請け合いです。
ズスケ弦楽四重奏団(1978年録音/Berlin Classics盤) 全集盤です。大曲では幾らか物足りなさを感じさせるズスケですが、この演奏は曲のスケール感と一致してとても良いです。デリカシーにも溢れていますし、リズムの扱い方やフレージングが全て堂に入っていて、何の抵抗も無く曲を心の底から堪能できます。しかも3楽章の美しさは卓越していて、澄み切った味わいが正に最高です。彼らの全集の中でも1、2を争う出来栄えだと言えるでしょう。
アルバン・ベルク弦楽四重奏団(1981年録音/EMI盤) 全集盤です。残響過多で分離の悪い録音は諦めるとして、肝心の演奏は悪く有りません。この曲では曲想のせいか、いつもの大袈裟な歌いまわしや過剰なアクセントがそれほど気に成らないからです。それよりも端々に感じられるウイーン的な甘い節回しに惹きつけられます。3楽章では大きく歌って聞かせてくれますし、終楽章での気分の高揚感も中々のものです。余り好まない彼らの旧盤の中では結構気に入っています。
ジュリアード弦楽四重奏団(1982年録音/CBS盤) ワシントン国会図書館ホールでのライブ録音による新盤です。彼らの旧盤では、あれほどの精緻で透徹した演奏を聞かせたので、ジュリアードと言えばその印象が強いです。ところが、この新盤では時の流れと実演という条件のもとで、いささか印象が異なります。確かに緻密さも感じますが、それよりも遥かにダイナミックで人間のパッションを感じさせるのです。しかも音楽が本当に大きいです。ロバート・マンがこれほど凄い音楽家だったとは、昔は全然気付きませんでした。耳が節穴だったのですね。これも旧盤と優劣の付けられない素晴らしい演奏です。。
スメタナ弦楽四重奏団(1983年録音/DENON盤) 全集盤です。派手さや大袈裟なところが全く無く、極めてオーソドックスと言えます。しなやかで美しい音が際立つのも大きな特徴です。この曲では、それが非常に良く生かされます。何の過不足も無く、曲をそのまま自然に聴かせてくれる良い演奏です。けれども、余りに自然過ぎて面白さに欠けるのも事実です。もう少しベートーヴェンの魂に迫るような凄みを感じさせて欲しい気もします。
メロス弦楽四重奏団(1985年録音/グラモフォン盤) 全集盤です。戦前は別としても、ドイツの演奏家は基本的にイン・テンポで堅牢な造形の演奏を行います。それが、たとえ刺激は少なくても安心感に繋がります。この演奏も同様で、がっちりとしていながら少しも無機的な印象は受けません。特に素晴らしいのが後半の3、4楽章で、彼らの音からは、美しく深い情緒が溢れ出ています。終楽章の彫の深さと手応えも出色で繰り返し聴くたびに味わいが増すように感じます。
ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(1990年録音/PLATZ盤) 全集盤からです。広がりの有る録音からは幾らかシンフォニックに聞こえますが、肩の力が抜けて力みの無い演奏がとても心地良いです。幾らウイーンの演奏家といっても昔ほどの甘さは有りませんが、それでもしなやかで柔らかい音は紛れもないウイーンの音です。彼らの全集の中でも1、2を争う出来栄えだと思います。
エマーソン弦楽四重奏団(1994年録音/グラモフォン盤) 全集盤からです。この曲も第1Vnを弾くのはゼルツァーですが、通常は第1Vnが目立つところを逆に抑え気味にして、完全に4つの楽器の集合体としています。その織成す音の鮮やかさと繊細さには脱帽です。3楽章では大きく歌わせずに極弱音のまま和音を響かせ続けます。人間の敬虔な感情を超越して、静寂な悠久の世界に漂うような感覚に襲われます。まるで第九のアダージョのようです。終楽章では、強音分での思い切りの良いダイナミクスも凄いですが、どんなに音が強くても美感を損ねないに驚きます。完全にコントロールされています。その点ではジュリアードSQの旧盤に匹敵するか、凌駕をしているとさえ思います。
ゲヴァントハウス弦楽四重奏団(1998年録音/NCA盤) 全集盤からです。彼らは古き良きドイツの伝統をベースに、優秀なテクニックで現代的な先鋭性も持ち合わせる素晴らしい団体ですので、どの曲も高水準の素晴らしさです。安心して聴いていられます。3楽章のしっとりとした響きと味わいも素晴らしいです。ベートーヴェンの晩年の心境がそのまま映し出されているかのようです。終楽章もメリハリが付いていて愉しく聴けます。
好きな演奏の多いこの曲のマイ・フェイヴァリットを強いて挙げるとすれば、やはりエマーソンSQでしょうか。次いでは、ジュリアードSQの新旧両盤です。但し、ラサール、ズスケ、メロス、ウイーン・ムジークフェライン、ゲヴァントハウスなども、どれもが素晴らしくその差は僅差だと思っています。
ということで、ようやくベートーヴェンの弦楽四重奏曲特集が終了しました。4月からですので足掛け半年かかってしまいました。聴き終えて改めて感じるのは、曲によって好きな演奏団体が随分と入れ替わることです。ですので16曲全てが良いという団体などは存在しません。次回は、そのことを踏まえた上で、敢えて全集盤としての比較を行ってみたいと思います。
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