アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキー侯爵(ウイーン駐在ロシア大使)
ベートーヴェン中期の弦楽四重奏曲は「傑作の森」の名に相応しい作品ばかりですが、特に「ラズモフスキー四重奏曲」の3曲については、その素晴らしさを何と形容したら良いか判らないほどで、正に弦楽四重奏曲の歴史における一大傑作です。
この曲集はベートーヴェンがラズモフスキー侯爵の依頼で作曲したために、その名称で呼ばれることは良く知られています。この人はロシアの貴族ですが、海軍軍人から外交官へ転身してウイーン駐在大使に任じられました。もちろんお金持ちなのでしょうが、羽振りが相当良かったようです。それに音楽と美術の大変な愛好家でもありました。自分のお抱えの弦楽四重奏団を持っていましたが、しばしば自らも第2ヴァイオリンを奏したそうですので、中々の腕前だったのでしょう。
その弦楽四重奏団は、ベートーヴェンとも親しいヴァイオリンの名手イグナーツ・シュパンツィヒが在籍していて、ヨーロッパで最も優れたカルテットと評判でした。そんな名カルテットのために作曲を依頼されれば、ベートーヴェンも創作に力が入ろうというものです。そして、かつてない最高の四重奏曲を書き上げました。
3曲はそれぞれ性格が異なり、実にヴァラエティに富んでいます。中でも第1番は最も曲の規模が大きく長大で、演奏に約40分を要します。壮大な広がりを持つ曲想が、どことなく「英雄交響曲」を連想させます。それとは対照的に、第2番と第3番は切迫感を持ち、強固に凝縮された音楽が「運命」を想わせます。音楽の驚くほど豊かな内容は作品18とは比べものにならず、後期の四重奏曲の深淵さとも異なる魅力に溢れています。
ラズモフスキー第1番の第1楽章は「英雄」の第1楽章と似ている気宇壮大なスケール感の有る傑作です。第2楽章はスケルツォ楽章ですが、通常は2楽章に置かれる緩徐楽章と入れ替えるという斬新さは自身の「第九」の先取りだと言えます。けれどもこの楽章は、当時の聴衆には全く理解されずに、ベートーヴェンは冗談でこの曲を書いたのだと思われたそうです。第3楽章は悲壮感に満ちたアダージョです。高貴なことこの上ありません。第4楽章はリズミカルな躍動感に溢れますが、展開部のシンコペーションが生み出す緊張感に強く惹かれます。4つの楽章はどれもが魅力に溢れていて大変に聴きごたえが有ります。
ベートーヴェンの中期以降の作品は4つの楽器が互いに競い合うように書かれている傾向が有りますが、それでもこのラズモフスキー第1番では、第1ヴァイオリンの重要性が相当に高いので、その奏者の力量や音楽性は演奏の出来栄えに大きく影響します。
この曲は非常に好きな曲なので、もしも全集盤の良し悪しを幾つかの曲で判断する際には、この曲と、それに第14番、第15番あたりを聴くことにしています。
それでは僕の愛聴盤のご紹介です。
ブッシュ弦楽四重奏団(1942年録音/CBS盤) 学生時代にLP盤で聴いて、この曲に開眼した想い出深い演奏です。ブッシュは戦前の一連の演奏からは想像出来ないほどに遅めのテンポでゆったりと歌っています。淡々としていながらも驚くほど味わいが深く、一音一音の意味深さが凄いです。3楽章でのブッシュのヴァイオリンの奏する悲壮感には言葉を失います。この演奏を聴いて、いつも連想するのがフルトヴェングラーの戦後のEMI録音の「エロイカ」です。単に精密なだけやスピード感の有る演奏とは全く次元の異なる素晴らしさです。時代を越えた演奏とは正にこのようなものです。これは偉大なブッシュの残した最高の遺産の一つです。録音も古い割に明瞭です。
ウイーン・コンツェルトハウス四重奏団(1951年録音/ユニヴァーサル・ミュージック盤) 彼らがウエストミンスターにベートーヴェンも主要な曲の録音を残してくれたのは嬉しいです。ブッシュ以上にゆったりとした演奏で、ウイーンの田舎の情緒がこぼれるようです。少々まったりし過ぎで迫力には欠けていますが、アントン・カンパーのヴァイオリンは悲壮感においてアドルフ・ブッシュに肉薄していますし、現代ではとても聴けないような甘さと柔らかさが非常に魅力的です。嗚呼、何と美しき哉、古き良きウイーン!
バリリ弦楽四重奏団(1955年録音/MCAビクター盤) ウエストミンスター録音です。もちろんバリリもウイーン的な甘く柔らかい音を持ちますが、コンツェルトハウスSQに比べれば、ずっと若い世代になるので都会的でスマートです。アンサンブルの精度は上がっていますし、2、4楽章では躍動するリズム感が素晴らしいです。反面、3楽章などは案外とスッキリしていて、悲壮感の表出に幾らかの物足りなさを覚えます。
ブダペスト弦楽四重奏団(1958年録音/CBS盤) 昔はバリリSQに比べると無味乾燥のように思われていた彼らですが、余りに厳しい音には当時の評価を想い起させます。面白いのはリズムやダイナミックの強調が現代の団体並みに先鋭的でメカニカルなのに、ポルタメントを多用した旋律の歌いまわしが情緒一杯で極めて人間的であることです。特に第1Vnのヨゼフ・ロイスマンの泣き節はシゲティにも匹敵するほどです。この一見アンバランスとも思われる要素が見事に融合しているのが凄いです。1950年代のモノラル録音盤も良いですが、音楽的に更に深いステレオ録音盤を取ります。
ジュリアード弦楽四重奏団(1964年録音/CBS盤) 旧盤の全集からです。昔、吉田秀和氏が絶賛していたのでLP盤で購入しましたが、メカニカルな窮屈さを感じて好みませんでした。けれども現在改めて聴き直すと音そのものの持つ迫力と力強さに圧倒されて、このハードボイルドな演奏も悪く無いなと思います。優秀なテクニックによる精緻な演奏はセル/クリーヴランド管のイメージとも重なります。アダージョも情に流されるタイプでは有りませんが、決して無味乾燥ということはなく案外と心に響いてきます。
ズスケ弦楽四重奏団(1967-68年録音/Berlin Classics盤) カール・ズスケはゲヴァントハウス管からベルリン歌劇場に移り、ベルリンSQを結成しました。それがこの団体です。東ドイツ的な堅牢さを持ちますが、ゲヴァントハウスSQと比べると、ずっとしなやかさを感じます。これはズスケの個性でしょう。テンポも幾らか速めですし、ダイナミクスも随分と現代的に強調されています。これは古いファンにも若いファンにも受け入れられそうな秀演だと思います。3楽章でのズスケのヴァイオリンは澄み切っていて、単なる感傷性を越えた崇高さをも感じさせます。
ヴェーグ弦楽四重奏団(1973年録音/仏Naive盤) アメリカに渡ったブダペストSQは強靭なアンサンブルを有しましたが、ヴェーグSQは現代の感覚からすれば、まったりした「ゆるキャラ」です。神経質なメカニカルさは微塵も無く、常に人間の肌の温もりを感じさせてくれます。ですので、第3楽章はそれほど深刻ではないのに悲しみが心の奥に浸みわたって来ます。ある種、戦前のレトロさと同質の味わいを感じさせてくれる演奏です。個人的には堪らなく好きです。
ゲヴァントハウス弦楽四重奏団(1977年録音/ビクター盤) 彼らの演奏旅行の合い間に日本でラズモフスキーの3曲が録音されたのは貴重でした。第2Vnはズスケからギュンター・グラスに代わりましたが、第1Vnのゲルハルト・ボッセ教授は健在です。テンポは一貫して中庸ですが、念押しするリズムに良い意味での重みを感じます。音もウイーン流の柔らかい音とは異なる、正に堅牢なドイツの音であり、全体が質実剛健な雰囲気に包まれています。嗚呼、古き良きドイツよ!
スメタナ弦楽四重奏団(1978年録音/DENON盤) 作品18の演奏は少々爽やかに過ぎるように感じましたが、ラズモフスキーでは音に強さを増していて不満が解消されました。と言っても、元々彼らはチェコの団体らしく、流麗で美しい演奏をすることには変わりありません。ベートーヴェンの音楽の持つアクの強さを更に打ち出してくれたほうが良いと思わないこともありませんが、この純音楽的な表現と美感が彼らの特徴ですので、そのまま味わいたいと思います。先鋭的に過ぎない演奏には安心して身を任せていられます。3楽章も非常に美しいです。
アルバン・ベルク弦楽四重奏団(1979年録音/EMI盤) 1、2楽章は速いテンポでダイナミズムが過激です。アンサンブルは優秀ですが、聴いていて「ゆとり」が感じられないのが好みから離れます。ところが3楽章になると一変してゆったりと甘く歌い、深い沈滞感を醸し出します。1stVnのギュンター・ピヒラーの味わいに満ちた歌いまわしにも魅了されます。4楽章は中庸のテンポですが、躍動感に溢れるリズムに乗った歌が非常に楽しいです。前後半で評価は分かれますが、全体的には悪くありません。
ジュリアード弦楽四重奏団(1982年録音/CBS盤) これはワシントン国会図書館ホールでのライブによる新盤です。精緻な旧盤に比べるとアンサンブルに幾らか緩みを感じますが、それが逆に人間的で好ましいです。 それよりもロバート・マンのヴァイオリンが非常にロマンティックなのには驚かされます。アダージョの痛切さは如何ばかりでしょう。これはウイーン的でもドイツ的でもありませんが、間違いなくベートーヴェンの心に肉薄する感動的な演奏です。残響の少ない録音も演奏が生々しく聞こえて好みです。
メロス弦楽四重奏団(1984年録音/グラモフォン盤) 彼らが登場したころは、ドイツの団体も世代が変わったなぁと思いました。速めのテンポで流麗に歌うのは、さしづめカラヤン/ベルリン・フィルのようです。それでも表現そのものはオーソドックスなので、異形な印象は受けません。ウイーン的な甘さを排除した、やはりドイツの伝統を受け継いだ団体です。余り強い個性を感じないのが好悪の分かれ目でしょうが、音は美しくアンサンブルも優れた美しい良い演奏だと思います。
ボロディン弦楽四重奏団(1989年録音/Virgin盤) 彼らはショスタコーヴィチの素晴らしい全集を残していますが、一方でドイツ音楽を演奏した場合にはウイーン的な甘さを表現するのが、とても好きです。ベートーヴェンにも主要な曲の録音を残してくれました。これは第1Vnのコぺルマンが東京カルテットに移籍してしまう前の録音であり、彼を中心に優れたアンサンブルで非常に美しい演奏を行なっています。欠点としては、まるで銭湯の中で録音したような残響過多な録音の為に細部が聴き取り難いことです。これは少々残念です。
アルバン・ベルク弦楽四重奏団(1989年録音/EMI盤) 二度目の全集がライブ収録というのはジュリアードSQと同じです。第1Vのピヒラーの語るところによれば、スタジオ録音に比べて細部の完成度は失われても、それに代わって得られるものが有るためにライブによる再録音を行なったそうです。確かに表現が過激とも言えるほどに大胆になりましたが、個人的には細部の犠牲の見返りほどの大きな魅力は感じていません。その点がジュリアードとの違いです。全集ですが第一巻と二巻に分かれていて、この曲は第一巻に含まれます。
ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(1990年録音/PLATZ盤) 全集盤からです。ウイーンの伝統である甘く柔らかい音が基盤となっていて、正にミニ・ウイーン・フィルです。ウイーンの情緒がこぼれそうです。弦楽器同士の紡ぎ合いが何とも美しいです。けれども同時に現代的な迫真性も持ち合わせているので、決してノンビリまったりというわけではありません。充分な音の迫力も持っています。古き良きウイーンの魅力と現代性の絶妙な融合ぶりが見事です。録音については残響が少々過多のように感じます。
エマーソン弦楽四重奏団(1994-95年録音/グラモフォン盤) 全集盤からです。これがライブ収録とはとても信じられません。他の団体のスタジオ録音を遥かに凌ぐ上手さです。アンサンブルの精緻さに加えて、個々の奏者の音程が完璧で、ハーモニーが極上の美しさです。ダイナミックな迫力を見せる部分と、柔らかく歌う部分の対比が実に見事で、千辺万化する表情の豊かさが得も言われぬ素晴らしさです。ドイツ的でもウイーン的でも無い、純粋に「音楽的な」名演奏だと思います。強いて欠点を上げれば、3楽章に深刻さが不足することでしょうか。それにしても第1Vnを弾くユージン・ドラッカーの上手さとセンスの良さは圧巻です。やはりこの人が第1Vnを弾く時が最強だと思います(このカルテットは第1Vnと第2Vnが曲によってローテーションをします)。
ゲヴァントハウス弦楽四重奏団(2003年録音/NCA盤) 全集盤からです。ボッセ時代の質実剛健さとは随分変わりました。早いテンポで颯爽と駆け抜ける演奏は、実に現代的です。オーケストラが母体のカルテットとしては非常に優秀ですが、さすがにエマーソンSQの後に聴いてしまうと少々聞き劣りします。それでもドイツ的な音の香りが完全に失われているわけでは無いので、やはりそこが魅力です。
以上のどれもが中々に良い演奏なので甲乙が付け難いところですが、ブッシュ弦楽四重奏団の演奏だけは別格的存在です。その理由はアドルフ・ブッシュの弾くヴァイオリンが他の奏者とは次元の異なる素晴らしさだからです。
ブッシュが余りに素晴らしいので、その他の演奏は特にどれとは言い難いところですが、しいて上げるとすれば、ブダペストSQとジュリアードSQの新盤の二つでしょうか。片やヨゼフ・ロイスマン、そしてロバート・マンという第1ヴァイオリンの存在感が圧倒的です。やっぱりこの曲は男(マン)の音楽なのかなぁ。
<追記> ジュリアード四重奏団の旧盤を後から加筆しました。
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