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2013年7月

2013年7月30日 (火)

被害者と加害者の立場は永遠に変わることは無いの? ~幻の日韓友好~

先日のサッカー東アジア杯での日韓戦では韓国のサポーターがまたまたやってくれましたね。競技場のスタンドに『歴史を忘れた国家に未来は無い』という巨大な横断幕が掲げられました。

それにしても近年の韓国の反日行動には凄まじいものが有ります。朴大統領の米国議会での日本非難演説、従軍慰安婦像をアメリカにも建立しようとする活動、挙句の果ては2020東京オリンピックの開催を阻止すべくIOCへの訴えまで行なっています。中国以上の反日国家だと言えるのかもしれません。あの日韓友好のシンボルとなったワールドカップの共同開催は一体どこへ忘れ去られたのでしょう。

いつかの朴大統領のコメントですが、「戦争被害者(韓国)と加害者(日本)の立場は永遠に変わることは無い」と力説していましたね。日本は永遠に加害者で悪い国なんだと言いたいのでしょうか。幾ら巨額の国家賠償金を支払ったり、韓国の経済発展のために援助や貢献をしても、悪い国は永遠に懺悔していなさいと言いたいのでしょう。どうやら大戦中の色々な賠償金の請求を新たに遡って行おうとしているようですし、ふんだくれるだけふんだくってやろうということのようです。

朝鮮民族の特質を表す言葉に「恨」(ハン)という言葉が有ります。「うらみ」ですね。いかにも粘着質で陰湿な性質を想像させます。永遠に恨みを忘れることは無いということなのでしょう。そして彼らはそれをパワーにしているようにさえ思えます。スポーツの競技を問わず、日韓対決の時にはいつでも「戦争」と称して、異常なほどの闘争心をむき出しにします。日本はついついそれに飲まれて負けてしまうことが有ります。日本人は大抵の場合でお人好しですから。

先日のことですが、米国の国際研究家ジェームス・E・アワー氏が韓国を訪問した際の寄稿文が産経WEBニュースに掲載されていました。非常に興味深い内容ですので皆さんに是非ご紹介したいと思います。

<正論>ジェームス・E・アワー 日韓の間の「真実の話」をしよう

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2013年7月26日 (金)

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 作品127 名盤

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲特集ですが、中期最後の第11番から、しばらく中断していました。およそニか月ぶりの再開です。と言うのも、ベートーヴェンは第11番を作曲した後に、次の弦楽四重奏曲を書くまでの間は何と14年もの空白が有ったのですね。そこで僕も、ちょっと間を置いてみようかなと思ったのです。でも、さすがに14年も空けるわけには行きませんからね。(笑)

弦楽四重奏曲第12番ホ長調作品127は、その14年の空白の後に作曲した最初の弦楽四重奏曲です。これ以降の5曲が、いわゆるベートーヴェンの「後期弦楽四重奏曲」とされます。この第12番と第13番、第15番は、ロシアのニコラス・ガリツィン公爵から依頼されて書いたために、この3曲を「ガリツィン・セット」と呼ぶことも有ります。ただ、実際に3曲まとめた演奏会やCDというのは余り目にした記憶がありません。

後期の弦楽四重奏曲を聴く上で忘れてならないことは、ベートーヴェンが全てのピアノ・ソナタと交響曲を書き終えてから、後期の弦楽四重奏曲を書き始めたことです。それは正にベートーヴェンが最後の最後に到達した孤高の境地だと言えます。その入り口に位置する第12番は、中期の作品ほど解り易くは有りませんし、続く第13番、14番、15番といった大傑作と比べると幾らか聴き劣りがするのも事実で、後期の5曲の中では地味な存在です。けれども、内容的には大変に内省的であり、気難しさを感じさせるベートーヴェン自身の魂の独白となっていますので、やはり後期の作品の名に恥じない名作だと思います。

それでは僕の愛聴盤のご紹介です。

51u9dbjsblブッシュ弦楽四重奏団(1936年録音/EMI盤) 基本的にブッシュはアメリカに移住する前のヨーロッパ録音には、頻発するポルタメントなどに、どうしても古めかしさを感じます。けれども現代では失われてしまった、自由自在な歌いまわしによる極めて人間的な肌触りや濃厚なロマンは、他の演奏家らは絶対に聴くことが出来ない大きな存在感を示します。メカニカルに整えて体操競技のように些細なミス探しをするような演奏が何とも虚しく感じられることに気付かせてくれます。1930年代前半までの録音に比べてずっと鑑賞に耐え得る音質になったのは嬉しいです。

10845ウイーン・コンツェルトハウス四重奏団(1951年録音/ユニヴァーサル・ミュージック盤) ウエストミンスター録音です。冒頭の和音から、実に柔らかく美しい音をゆったりと響かせます。緊張感よりは懐かしい雰囲気が一杯に感じられます。ブッシュSQに古めかしさを感じた自分が、この演奏には不思議と抵抗感が有りません。果てしない安らぎと癒しが絶大な魅力となっているのです。1楽章にしてこの様ですから、2楽章ではもう何をいわんやです。後半の3、4楽章は少々まったりし過ぎかなと思わなくもありませんが、それこそが彼らの魅力ですので不満は感じません。

Barylli_1012リリ弦楽四重奏団(1956年録音/MCAビクター盤) ウエストミンスター録音です。ウイーン・コンツェルトハウスSQ並みに柔らかく始まります。世代が異なるとは言っても、やはり同じ当時のウイーンのスタイルなのですね。強いて言えば、懐かしい雰囲気はコンツェルトハウスSQが勝り、バリリの方が幾らか現代的な構築性に優っている様です。ですので3、4楽章でのリズムの切れや躍動感でも彼らの方が勝りますが、現代の層々たるカルテット以上のものが有るかと問われれば答えに困ります。

90650dc0bfe3c81c14f641d351d90ca5ブダペスト弦楽四重奏団(1961年録音/CBS盤) 全集盤です。後期に入って作品が更に深みを増すとともに、ブダペストの本領がいよいよ発揮された感が有ります。中期の演奏も素晴らしかったですが、この曲での演奏の深みは何とも圧倒的です。単に音程や縦の線が完璧であるとか言うレベルでは無いのです。表現の意味深さや間合いの良さは比類が無く、4人の奏者がベートーヴェンの書いた楽譜の全ての音符に命を吹き込んでいます。一聴しただけでは耳あたりの決して良くない厳しい音に馴染めないかもしれませんが、聴きこむほどに心底引きこまれます。これほどまでに深い演奏は他の団体からはまず聴くことが出来ません。

V4871ヴェーグ弦楽四重奏団(1973年録音/仏Naive盤) 全集盤です。手放しで賞賛できるのは第2楽章で、他の演奏に比べても、最も深い味わいに満たされているように思います。けれども全体的にはアンサンブルの弱さを消し去ることは出来ないですし、緊迫感に欠けるきらいがあります。ところが退屈するかと言えば、決してそんなことも無く、ゆったりと落ち着いて聴き楽しめるのです。タイプとしては、ウイーン・コンツェルトハウスSQに近いと言えます。

51jrjljelラサール弦楽四重奏団(1976年録音/グラモフォン盤) 後期の曲のみの録音で、かつては一世を風靡しましたが、すっかり忘れ去られた感が有ります。けれども改めて聴いてみると、ジュリアードSQの旧盤のような先進性を感じます。アンサンブルはメカニカルに感じるほど優秀で、ダイナミクスは大きく、音の切り込みが鋭く、アタックは激しく、演奏に非常に凄みが有ります。反面、2楽章では余り「精神性的」な厳粛な雰囲気は感じさせません。いかにもアメリカ的に聞こえます。自分の好みで言えば、それほど惹かれるタイプの演奏ではありません。

Suske_beethoven_late_2ズスケ弦楽四重奏団(1978年録音/Berlin Classics盤) オーソドックスな演奏が優等生的に過ぎて、面白みを感じない場合が無きにしも非ずの彼らですが、この曲では、その弱点を感じさせません。ハーモニーが極めて美しく、表情も大げさなところが無いにもかかわらず、出す音は常に意味深く、聴き応えが充分です。強いてマイナスを言えば、演奏が美し過ぎて、この曲が持つ気難しさを感じ難いことぐらいでしょうか。けれどもそれさえもブラスに思えるぐらいに魅力的です。彼らの全集の中でも、1、2を争う出来栄えだと思います。

D0021969_10143431アルバン・ベルク弦楽四重奏団(1981年録音/EMI盤) 全集盤です。さんざん書いてはいますが、大ホールの最上階で聴いているような録音がどうも好きになれません。第1楽章はウイーンの団体らしい柔らかい甘さと、先鋭的なダイナミクスの極端な変化とが混在して、何か統一感に欠けるような気がしてしまいます。第2楽章は、しなやかな歌で祈りの気分を一杯に感じさせてくれます。第3楽章はリズムの鋭い刻みが印象的です。第4楽章もダイナミクスの大きさと、厳しいリズムに魅了されます。

G7138122wスメタナ弦楽四重奏団(1981年録音/DENON盤) 全集盤です。前述のズスケSQに近い非常にオーソドックスな演奏です。過剰なダイナミクスの無い、穏やかな表現はいつもながらですが、少しも雑に弾き飛ばすことの無い誠実さには毎回感心します。第2楽章での4人の音の織り重なりには非常に美しさを感じます。第3楽章では音楽の気難しさが良く出ています。第4楽章は音楽の流れが非常に良く楽しめます。目新しさは無いものの良い演奏だと思います。

51f03m0kttlジュリアード弦楽四重奏団(1982年録音/CBS盤) ワシントン国会図書館ホールでのライブ録音による新盤です。ライブということもあるのでしょうが、かつてのメカニカルな印象は全く有りません。第1楽章の音のタメ、大きな間合いの取り方は、まるで歌舞伎の大見得を切るかのごとくです。第2楽章もロバート・マンを中心に実にロマンティックに崩すほどに歌います。第3楽章は彫の深い演奏ですが、中間部では気迫が溢れ出るようです。第4楽章は遅いテンポで、そそり立つ様な大きな音楽が有ります。

Melos_beethoven_lateメロス弦楽四重奏団(1984年録音/グラモフォン盤) リズムの堅牢さと甘く成り過ぎない音造りが、やはり彼らがドイツの団体であることを認識させられます。ウイーン的なベートーヴェンも魅力ですが、ドイツ生れの楽聖の毅然とした姿を想像させるには、こういうドイツ的なスタイルが良いですね。決して古めかしい演奏ではありませんが、さりとて表現に過激さを感じることはありません。ドイツの伝統の上に生まれた素晴らしい演奏だと思います。

338アルバン・ベルク弦楽四重奏団(1989年録音/EMI盤) 二度目の全集の第1巻に含まれます。アルバン・ベルクSQは往々に最高の技術を持った団体だと評されますが、僕は決してそうは思いません。この演奏でも、第3楽章中間部の難所では随分粗く感じるからです。ウイーンの甘さと柔らかさは魅力ですが、フォルテ部分のアタックの激しさは迫力よりも騒々しさを感じてしまいます。この曲については、録音に難は有っても旧盤のほうを取りたいと思います。

61vvfzeifl__sl500_aa300_ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(1991年録音/PLATZ盤) 全集盤からです。この曲でも残響の多い録音ですが音に芯は有ります。ちょっとしたフレーズの端々に、いかにもウイーンの団体らしい甘さと柔らかさを感じます。それでいてフォルテ部分では適度な激しさも持ち合わせています。決して懐古主義で終わらない先鋭的な要素も持っているのです。正にミニ・ウイーンフィルといった風情です。もっと注目されて良い演奏ではないでしょうか。

Emersonbeethovenエマーソン弦楽四重奏団(1995年録音/グラモフォン盤) 全集盤からです。冒頭から、豊かな表現力とニュアンスが別次元であることを感じます。第3楽章の難所も唖然とするほど完璧に弾き切っています。これが本当にライブなのでしょうか。強奏部では相当凄みの有る音を出していますが、アルバン・ベルクのライブのような力みや汚い音には成りません。弱音部では一転して羽毛のように柔らかい音を聞かせます。それらが全て、ドイツ的でもウイーン的でも無い「純音楽的」な美を表出しています。これほどまでに素晴らしいセンスを持つ団体がアメリカから生まれたことは少々驚きです。

312ゲヴァントハウス弦楽四重奏団(2002年録音/NCA盤) 全集盤からです。録音が優れていることもありますが、非常に音が美しいです。ウイーン的な甘さは皆無ですが、底光りするような禁欲的な音です。ドイツの古いオーケストラのようないぶし銀の美しさとも言えます。テンポは特に遅いわけでは有りませんが、厳格に刻まれるリズムにより重量感が感じられるのは、ドイツの団体に共通した特徴です。これもまた優れた演奏の一つです。

さすがに、どの演奏からも後期のベートーヴェンの深い内容が伝わって来ます。けれども、マイ・フェイヴァリット盤を選ぶとすれば、東の横綱がブダペストSQ盤、それに唯一対抗し得る西の横綱がエマーソンSQ盤です。続く大関の座は、ズスケSQとメロスSQというところです。但し大関は今後入れ変わるかもしれません。

ということで、ようやく再開したベートーヴェンの弦楽四重奏特集ですが、後期の曲はやはりキツイ。大したことを書いているわけでは有りませんが、一つ一つの演奏を聴き比べてゆくのは良い意味で結構疲れます。記事の間隔が開いてしまうかもしれませんが、そこはどうかご了承ください。

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2013年7月20日 (土)

参議院選挙にむけて 「平和憲法を守れ」への疑問

もしも貴方が中国人だったらとしましょう。それも、いっそ中国国家の上層部だとしましょうか。そのうえで、太平洋の地図を眺めてみて下さい。

きっと尖閣諸島や琉球諸島が日本の領土だということには少なからず違和感を覚えることでしょう。もちろん地形学的に見れば、日本列島と琉球諸島はつながっています。けれども単に距離的な見方をすれば、沖縄県の南端の島々がどれほど(中国である)台湾に近いかが良く分ります。

今やアメリカと肩を並べる中国は、海洋進出に躍起となっています。陸の上で近隣の弱い国々を次々と自国に併合してきた中国は、実は大変な侵略国家ですが、現在は領海を拡大するのに一生懸命です。以前、中国海軍の司令官が米軍の太平洋艦隊司令官と会談した際に、「ハワイを真ん中にして太平洋を二分して、東側をアメリカが、西側を中国が管理すれば効率的である。」と述べたので、アメリカの司令官はあっけにとられたそうです。世界の大国である中国にとってみれば、それが普通の感覚なのでしょう。

話は変わって、戦後にアメリカによって作成された我が国の憲法の原則には、「日本の周囲は良い国であり、日本に対して侵略行為を行なうような国は無い」「日本が二度と外国に侵略を起こすことが無いように」という基本的な考え方が有ります。それが平和憲法だという所以です。ところがどうでしょう。北朝鮮の拉致は立派な侵略行為ですね。北朝鮮には、日本に武装ゲリラを上陸させて原発を破壊するという作戦が本当に有るのだそうです。怖ろしいことです。中国による尖閣諸島の領海侵犯も同じことです。

我が国の「平和憲法」では、これらのことが想定されていないために、充分な対応が取れないのだそうです。ですので中国は、変法改正を掲げる安倍首相を「右派」だと批判して、何とか改憲論を封じ込めたいのが見え見えです。

日本の野党はこぞって「平和憲法」を守れと主張して、北朝鮮や中国に日本の国が脅かされても、話し合いで全てが解決できると言います。本当でしょうか。中国や北朝鮮、そして今や韓国さえも対等な話し合いの出来ない国であることは、日本人も薄々感じているのではないでしょうか。

中国は太平洋へ進出する為には、沖縄を日本から独立させて琉球王国として、あわよくば中国寄りの立場にできないかと本気で考えているでしょう。
一方、沖縄では「米軍は沖縄から出てゆけ」と反対運動が行われることがありますが、もしも米軍が沖縄から出て行ったときに一番喜ぶのは中国です。
沖縄の人も、政治家もそのことを良く考えたうえで発言をして貰いたいと思います。戦争反対、オスプレイ反対、米軍基地反対、改憲反対がどれだけ危ういことであるかをです。こんなことを書くと、僕を戦争したがりの右派だと思う人が居るかもしれません。でも、北朝鮮がかつて日本人を大勢拉致したときにも、「日本は絶対に攻めて来たりはしないから」とタカをくくっていたそうです。それは日本に「平和憲法」が有るからだというのも大きな理由だったと考えられています。

一体何が本当の事なのか、我々国民は一人一人良く考えてみる必要が有るでしょう。

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2013年7月19日 (金)

ドヴォルザーク 交響曲第8番&第9番「新世界より」 チャールズ・マッケラス/プラハ響のライブ盤

Mackerras_dvorak_0チャールズ・マッケラス指揮プラハ交響楽団(2005年録音/スプラフォン盤)

サー・チャールズ・マッケラスは、オーストラリア人ながら、自国の他にイギリス、ドイツ、チェコなどの国で活躍しました。レパートリーも幅広く、モーツァルトの交響曲や管弦楽曲の録音でも良く知られていますが、ユニークなのはヤナーチェックの音楽に造詣が深いことでしょう。恐らく20代の頃にプラハでヴァーツラフ・ターリッヒに師事した影響だと思われます。マッケラスがヤナーチェックのオペラを録音する時に、チェコ人の歌手たちにチェコ語で指示を出していたので皆を驚かせたそうです。また、チェコ・フィルの首席客演指揮者になった時期も有りますので、チェコの音楽全般を得意としています。

そんなマッケラスが亡くなる5年前の80歳の年、2005年にライブ録音されたドヴォルザークの交響曲第8番と第9番「新世界より」が有ります。最近、この演奏を聴いてみたのですが、非常に素晴らしかったのでご紹介します。

オーケストラはプラハ交響楽団、演奏会場はプラハのスメタナ・ホールです。チェコの管弦楽団の王座に君臨するチェコ・フィルは音色、技術ともに最高ですが、レコーディングに関してはヴァーツラフ・ノイマン時代に極め尽くされてしまった為に、その後の色々な指揮者の演奏にもそれほどの新鮮味を感じません。むしろ洗練されたチェコ・フィルよりもプラハ響、プラハ放送響、あるいはスロヴァキアのスロヴァキア・フィルやブラティスラヴァ放送響といった技術的には少々劣っていても、よりローカル色の強い味わいを持つ演奏の方に新鮮味を感じています。

さて、この演奏ですが、プラハ響は、とても美しく良い響きを出しています。録音もホール・トーンを生かしたコンサート会場の臨場感を感じさせる優秀なものです。

マッケラスの解釈は極めてオーソドックスで、まるでチェコ人が指揮しているような安心感を感じます。チェコ以外の国の指揮者が演奏すると、大抵の場合「曲を自分の腕でどんな風に料理してやろうか」という欲を感じるものです。そうすると面白くは有っても、チェコの音楽からは遠ざかってしまいます。そういう演奏は個人的には好みません。マッケラスのテンポ、歌いまわしは本当にチェコの伝統に忠実なので、人によってはつまらないと感じるかもしれません。自分のように「国民楽派は自国の演奏家が一番だ」と考える人には、きっと自然に受け入れられるでしょう。もちろんライブですので、高揚感は充分に有ります。しかし過剰と思えるような強奏やハッタリの要素はどこにも有りません。

プラハ響は、随分以前には実演だと技術的に粗さを感じてしまうことが有りましたが、この演奏にはほとんど感じられません。でも繰り返しますが、無機的なメカニカルさを感じることは全く有りませんし(そこまでは上手く無い?)、人間的な肌触りや、ローカルな素朴さを多く感じます。弦楽も美しいですが、木管の音質はチェコ・フィルと全く同質の美しさを持ちます。

第8番、第9番の2曲の出来栄えは、どちらも素晴らしいのですが、8つの楽章どれをとっても魅力的です。第8番であれば、第2楽章の抒情性、第3楽章の哀愁を一杯に湛えたゆったりとした歌いまわし、第4楽章の高揚感、どれもが心から満足できます。全般にアレグロ部で幾らかリズムが前のめりになりますが、これはむしろライブなのでプラスに感じられます。

第9番の演奏も、8番の特徴がそのまま当てはまりますが、出来栄えは第8番を更に上回るかもしれません。第1楽章での余り仰々しくならない音のタメ具合と、瑞々しく流れるようなフレージング、第2楽章での心の奥から淋しさが滲み出てくるような望郷の念、第3楽章の切れのあるリズム、第4楽章での高揚感を強く感じさせながらもドンチャン騒ぎの爆演に陥らない理性や、金管の強奏でも濁らずにふっくらと広がる響きの美しさ、どれも本当に素晴らしいです。

これまで自国演奏家でなければ、決して出来ないと思っていた、ボヘミアの自然の味わいと美しさに満ちた演奏をマッケラスは成し遂げています。この人にとってチェコは第2の故郷だったのかもしれませんね。

自分のフェイヴァリット盤としても、第8番では、アンチェル/チェコ・フィルの1960年ライブ(PRAGA)、ノイマン/チェコ・フィルの1982年盤(スプラフォン)に次いで、セル/クリーヴランド管(EMI)と並ぶベスト3に、第9番「新世界より」では、ノイマン/チェコ・フィルの1971年ライブ(PRAGA)、アンチェル/チェコ・フィル(スプラフォン)、ターリッヒ/チェコ・フィルの1954年盤(スプラフォン)のベスト3に続く、コシュラー/スロヴァキア・フィル(オーパス)、レナルト/ブラティスラヴァ放送響(Amadis)と並ぶ第二グループに加えたいと思います。2曲が1枚のディスクに収録されていて、どちらも非常に高い水準というのがポイントです。

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2013年7月13日 (土)

ドヴォルザーク 交響曲第8番 カレル・アンチェル/コンセルトへボウ管のライブ盤

31qbwg0ngblカレル・アンチェル指揮アムステルダム・コンセルトへボウ管(1970年録音/EMI盤)

それにしても暑いですね~(汗汗)
毎日毎日、鉄板の上で焼かれてイヤになっちゃう、泳げたいやきくんになった気分です。(苦笑)

こういう季節にはクラシックよりも、むしろバリバリのロックやラテン・ミュージック、ボサノヴァなんかが聴きたくなりますが、クラシックであれば、ボヘミア音楽なんかは爽やかで良いですよね。ドヴォルザークとかスメタナとか。
ということで、今日はドヴォルザークです。
つい先日も、コシュラーのドボ8を記事にしたばかりですが、今度はカレル・アンチェルのドボ8です。

何年か前にIMGの企画、EMIの制作で出た「20世紀の不滅の大指揮者たち」は、非常に素晴らしい企画でしたので、僕も何人かのマエストロのディスクを購入しました。このシリーズの中の一人に、カレル・アンチェルが居ましたが、僕はアンチェル・ファンであるにもかかわらず、そのディスクは購入しなかったのです。理由は簡単、メインのドヴォルザークの交響曲第8番の演奏が、アムステルダム・コンセルトへボウ管だったからです。この名門オケの演奏とあれば飛びつきたいところですが、ことドヴォルザークに関しては、チェコおよびスロヴァキアのオーケストラの音が圧倒的に好きなので、他の国のオケには余り興味が沸かないのです。これはもう好みの問題ですので、どうにもなりません。

名指揮者アンチェルが西側へ亡命する前にチェコ・フィルとスプラフォン・レーベルに残したセッション録音には、ドヴォルザークの「新世界より」と、スメタナの「我が祖国」という、いまだに同曲中の決定盤とも呼べる名盤中の名盤があります。チェコ・フィルの前任の主席指揮者ヴァーツラフ・ターリッヒは、「指揮するたびに一度として同じ演奏はしなかった」と、同業のフルトヴェングラーに言わしめたほど即興性が高かったのですが、アンチェルはセッション録音を聴く限りでは、極めて構築性の強固な指揮者の印象です。ところがライブになるとまるで人が変わり、驚くほど開放的な演奏を行い、時には阿修羅のごとき爆演と化します。「新世界より」や「我が祖国」でのライブ盤が、それを証明しています。

この人には、ドヴォルザークの第8番のセッション録音が無いのが残念ですが、それでもチェコ・フィルとの1960年のライブ録音(PRAGA盤)が有るのが幸いで、モノラル録音であるハンディを度外視すれば、やはりベストの演奏だと思います。ですので、以前はコンセルトへボウ盤が出ても購入意欲が湧かなかったのです。ところが時が経つと人間の気持ちは変わるもので、せっかくのアンチェルのステレオ録音ならば一度は聴いてみるべきだったかな、と思い直しました。

このシリーズは既に廃盤なので、安価で入手するのには時間がかかりましたが、先日無事に入手することが出来ました。「いつ買うの?今でしょ!誰が買うの?君でしょ!」と言われた気がしました。(苦笑)

それでは聴後の感想をご紹介します。

第1楽章から非常に安定感が有ります。チェコ・フィルとのライブ盤での彫の深い歌い回しに比べると非常にオーソドックスな表現です。それでもフレージングが自然なのは、さすがに名匠です。コンセルトへボウはチェコ・フィルほどの素朴な音色ではありませんが、さりとて都会的でメカニカルな音でも無いので、このような曲には比較的適していると思います。少なくとも違和感は感じません。もっとも、このような曲での木管群の音は、やはりチェコ・フィルの素晴らしさには及びません。フィナーレの追い込みでの叩きつけるような迫力もチェコ・フィル盤の凄さには到達していません。

第2楽章は安定したテンポですっきりと流れます。得てして指揮者の思い入れが過剰でもたれるように歌うと、ボヘミアの爽やかな空気感が失われがちですが、そのような愚は犯しません。ヴァイオリン独奏部はなんだか怪しい出来栄えですので、おそらくは名コンマスのクレヴァースさんではなかったのでしょう。この楽章での楽器のハーモニーの美しさや翳りの濃さもチェコ・フィルに一日の長が有りそうです。

第3楽章の歌い方は美しいのですが、スラブ舞曲のリズムと歌の彫の深さではやはりチェコ・フィルに及びません。

第4楽章での厚く充実した音と迫力は素晴らしいです。この楽章だけはチェコ・フィル盤の熱演にかなり迫っています。フィナーレもチェコ・フィル盤の阿修羅のような追い込みには及ばないまでも相当なものです。

ということで、全体的にチェコ・フィルのライブ盤以上の魅力は感じませんが、なにしろ良質なステレオ録音ですし、アンチェルの数少ないドヴォルザークの至芸を味わえるという点では、ファンにとってはやはり有難い録音です。

なお、このディスクには他には自国のスメタナ、マルティヌ―、それにショスタコ―ヴィチの小品が収められています。

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2013年7月11日 (木)

「ワイルドで行こう!」(Born To Be Wild) ステッペンウルフ ~イージーライダー~

参議院選挙を前にして日本列島がヒートアップしているわけでも無いのでしょうが、それにしても毎日暑いですねぇ。「どうしてこんなに暑いんだ~バカヤロー!」とでも言いたくなる気分です。

僕は車でもクラシックはよく聴きますが、これだけ暑いとさすがに少々敬遠気味になります。本当にクソ暑いときにはロックをガンガンに流したくなるのです。

ということで、本当に暑いときに聴きたくなる曲が2曲有ります。そのうちの1曲は以前、ザ・フーの記事でご紹介した「サマー・タイム・ブルース」です。これはもう頭のてっぺんまで突き抜ける感じで爽快極まりません。

そしてもう1曲が、カナダのロックバンド、ステッペンウルフ(STEPPENWOLF=荒野の狼)の歌う「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド(Born To Be Wild)」(日本タイトルは「ワイルドで行こう!」)です。スギちゃんの「ワイルドだろう~」は、すっかり下火になりましたが、この曲は暑い夏に大音量で聴くと暑さが吹っ飛びます。リード・ヴォーカルのジョン・ケイの歌声も荒々しくて曲にピッタリですね。

この曲は、僕が中学生だった1969年にヒットしたアメリカ映画「イージー・ライダー」のタイトルバックに使われていて、非常に印象的でした。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが、長い長いハンドルのハーレー・ダビットソンにまたがってアメリカを旅するという映画ですが、あのハンドルを見たときには驚きましたね。映画がヒットするや、日本でも同じようなバイクを見かけるようになりました。

映画のストーリーとしては特別に面白いというわけでも有りませんが、当時の「ニュー・シネマ」と呼ばれた若者向けの多くの映画は、閉塞感で一杯の世の中に抵抗する精神を強く感じたものです。

それでは映画のシーンを観ながら、この暑さをぶっ飛ばしましょう。ワイルドで行こう!
ボクって簡単にノッてしまう、イージーライダー??(笑)

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2013年7月 9日 (火)

参議院選挙にむけて ~ねじれ国会が悪なの?~

7.21参議院選挙に向けて各政党が必死の選挙運動を展開しています。そのホットさに日本列島全体がヒートアップしたかのような熱い熱い夏になりました。

民主党政権時代には、とても黙っていられずに、たびたび政治もの記事を書きましたが、自公政権に戻ってからは余り記事を書くことが有りませんでした。あのやることなすことに危うさを感じた民主党政権に比べると、何だかんだ言いながらも自公政権には安定感を感じます。先の国会で久しぶりに登場した野田元首相が安倍首相に対して、「歌の文句ではありませんが、だましたあなたが悪いのか、だまされた私が悪いのか・・・」などと口にしていましたが、それを言いたいのは国民が民主党に対してじゃないでしょうかねぇ。

依然として自民党の上げ潮ムードは続いていますが、安倍首相は、こう言います。「何としても衆参国会のねじれを解消しなければなりません!」
先の参院では、野党が安倍首相の問責決議案を提出したために、重要法案がことごとく時間切れで廃案に成ってしまいましたが、野党の行動は全くもって不可解です。政争のつもりなのでしょうが、まるで無意味なことです。国会がこのような有様では、やはりねじれを解消しなければならないのかと思えてしまいます。

けれども、本当にねじれが悪なのでしょうか?そもそも衆参二院制の意義は、政権を司る政党を置く衆議院に対して、それが一元的な見方に傾いた独裁、暴走に走らないようにバックアップを行う「良識の府」が参議院のはずですよね。ところが現在の参議院は、自公政権に何でも反対する民主党を中心とした野党が幅を利かせているがために、審議が進まない状態に陥っています。とりわけ「参院のドン」と呼ばれる民主党の古参コシイシ議員の悪影響が大だと思っています。党利党略重視の政争にのみ明け暮れているのでは、二院制の意義が果たせません。自分は決して「ねじれ」そのものが悪いとは思いません。本来、衆参は「ねじれ」ていても良いのです。参院が良識の府として、衆院の間違いは正す、正しいは賛すると、きちんと機能を果たせばよいだけです。それが現在のように単なる政争の具にしかならないのであれば、参院不要論が叫ばれても当然です。

少なくとも現在の野党集団が参院の過半数を維持することは、間違いなく政治の停滞を招くでしょうから、それは困ります。国会の停滞を解消するためには、ねじれからの脱却はやむなしでしょう。ですので、政権党のどちらかに一票を投じようと考えています。自分は自民党の経済政策や国防政策には大いに期待していますが、原発政策に関しては、「脱原発」というのが自分の考え方ですので、恐らく今回は原発推進を掲げない公明党のほうに投票することになりそうです。

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2013年7月 6日 (土)

マーラー 交響曲第1番&3番 エーリヒ・ラインスドルフ/ボストン響

Leinsdorf_mahler_13エーリヒ・ラインスドルフ指揮ボストン響(第1番:1962年録音、第3番:1966年録音/RCA盤)

昔からエーリヒ・ラインスドルフという指揮者には特に興味を持っていませんでした。二流とまでは言わずとも、大巨匠とは呼べない中堅指揮者ぐらいの認識だったのです。そのイメージを大きく覆されたのは、晩年にバイエルン放送響に客演したマーラーの第6番のCD(オルフェオ盤)を聴いた時でした。これは正に大家の芸と呼ぶにふさわしい、極めて味わいの深い名演奏だったからです。

ラインスドルフはウイーンのユダヤ系の家に生まれ、ザルツブルグとウイーンで音楽を学んだ、生粋のオーストリア出身の指揮者です。20代の頃にアシスタントとして就いたのがワルターとトスカニーニですので、この人の指揮の基盤になっているのは二人の大巨匠なのかもしれません。マーラーを得意にしたのも、単にユダヤの血筋だというだけではなく、ワルターから受けた影響ではないのかと想像されます。

ラインスドルフはオペラも非常に多く演奏しましたが、コンサート指揮者として一番記憶に残っているのは、シャルル・ミンシュの後任としてボストン交響楽団の首席指揮者になった頃です。ベートーヴェンの交響曲全集なんかも完成させているのですが、どうもミュンシュ時代の栄光の陰に隠れてしまい損をしていたようです。このベートーヴェンは聴いていませんが、マーラーに関しては前述の第6番の他に、先日記事にしたボストン響時代の第5番も素晴らしかったので、更に1番と3番のディスクを聴いてみました。昔はもちろん別々にアナログLP盤でリリースされたのでしょうが、現在は2曲が2枚のCDに収録されています。

この演奏には、すっかりハマってしまいました。演奏のダイナミックレンジが広いか狭いかと言えば「狭い」。テンポや表情の激変が大きいか小さいかと言えば「小さい」。深刻か温厚かと言えば「温厚」。要するに、新しいか古いかと言えば「古い」のです。けれども演奏を聴いていて、妙に「安心感」を感じます。既に多くの演奏家がマーラーを演奏し尽した現代では、指揮者は往々にして「自分はマーラーをこんな風に演奏するんだぞ」という「力み」を感じさせます。それが全く無いのですね。既にワルター、クレンペラー、ミトロプーロス、バーンスタイン達によって世に認められたマーラーの音楽を演奏する喜びに満ちているような気がします。ラインスドルフにとっては演奏を出来るだけで幸福だったのではないでしょうか。ですので、決して刺激的では無くとも、聴いていて少しも余計な事を考えずに音楽に浸っていられます。「安心感」と「幸福感」を聴き手も同じように享受できます。

第1番はブルーノ・ワルター盤の印象に似ているでしょうか。バーンスタインのような劇場(激情)型のマーラーでは全く無いのです。怖れを抱く様な超人的にスケールの大きい「巨人」では無く、甘く弱い心を持つ若者の青春賛歌のような味わいの深い演奏です。この曲を聴いてこれほど幸福感に浸れたのは、本当にワルター以来かも知れません。なお、ボストン響の音は非常にポップな印象です。ミュンシュ時代のフランス的な明るさが多分に残っているようです。アンサンブルは優秀ですが、シカゴ響のような砥ぎすまされた緊張感は有りません。どちらか言えばニューヨーク・フィルのように神経質にならない大らかさを感じます。

第3番も特徴は全く同じです。幾らか速めのテンポで快適に進みます。しかしラインスドルフはウイーンやザルツブルクで学んだだけあって、ドイツ・オーストリアの音楽の伝統が体の血となっているのでしょう。これ見よがしな表現が全く無いのに、どこを聴いても物足りなさが無く、自然に演奏に引き込まれてゆきます。あのフィナーレでさえも、圧倒されるような巨大さは少しも有りません。この長大な曲を、とても心地良く感じているうちにいつの間にか終わってしまうのです。これまでに聴いたどの演奏よりも、良い意味で「早く」終わってしまう演奏のように感じます。ワルターは第3番の録音を残しませんでしたが、もしも残していたら、似た演奏だったのではないかと想像すると愉しいです。

このCDはデジタルコンバーターUV22を使って24ビットでリマスターされています。RCAの録音が元々優れているのでしょうが、リマスターの音質は素晴らしい出来栄えです。

ラインスドルフのマーラー録音には、ボストン響との1番、3番、5番の他には6番が有ります。6番はバイエルン放送盤が素晴らしいので、ボストン盤は聴いていませんが、これも機会が有ればと思っています。更に欲を言えば、2番と9番が聴きたかったですね。どこかのライブ録音は残されていないのでしょうか。

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