
ヴァルデモサの修道院
「24の前奏曲(プレリュード)」作品28は、ショパンがパリでジョルジュ・サンドと知り合い、親しくなっていった頃の約3年に渡って作曲されました。サンドがショパンの病気を心配して、療養のために二人でスペインのマジョルカ島に渡ります。けれども、ショパンの肺結核の病気が島の人々に怖がられてしまったために、二人は人里から遠く離れたヴァルデモサにある修道院に移らざるを得ませんでした。ショパンは、ここでピアノを弾き、「24の前奏曲」を完成させたのです。
ショパンがバッハの「平均律クラヴィーア集」を、座右の曲として弾いていて、この「24の前奏曲」作曲のヒントとなったことは良く知られています。全て(24)の調に対して1曲づつ曲を作ったのですが、ハ長調(第1番)とイ短調(第2番)の平行調をスタートとして、完全五度づつ上昇して全ての調を一巡するというユニークな配列(いわゆる五度循環方式)をとっているために、全体が見事な統一感を持っています。3年の間に別々に書かれた、短く性格の異なる曲たちが、全く違和感を感じることなく、自然に流れゆく川のように移りゆくのには感嘆します。
24曲の中では、やはり第15番変ニ長調「雨だれ」が印象的です。初めから絶え間なく続く同じ音「ラ♭」が雨だれに聞こえるので、この呼び名が付きました。曲は刻々と表情を変えて行きますが、この音だけが変わらずにいつまでも続きます。天才的なアイディアの傑作だと思います。
続く第16番変ロ長調も印象的です。速いプレストですので、出来るだけ速く、かつ音を明確に弾き切れるかが勝負です。
第4番ホ短調ラルゴはメランコリックな曲ですが、ショパンが亡くなった時にパリのマドレーヌ寺院で行われた葬儀でオルガンで奏されたそうです。
他のどの曲もショパンらしい詩情に溢れた美しい名曲ばかりですが、それぞれの曲を個別に聴こうとは、まず思いません。多くのピアニストのリサイタルでも「雨だれ」以外の曲は、単独で弾かれることは少ないようです。やはり全曲を通して、はじめて真価を発揮する曲集なのでしょう。ショパンの曲では、ピアノ・ソナタの2番、3番を最も好んではいますが、最高傑作としては「24の前奏曲」だという気がします。
それでは僕の愛聴盤のご紹介です。
アルフレッド・コルトー(1926年録音/NAXOS盤) コルトーは1933年にも再録音を行なっていますが、これはEMIへの最初の録音をSP盤から板起こししたものです。当然ながら音は非常に古めかしいです。コルトー全盛期ですから、自由自在の表現と引き締まった演奏に高い評価を与える人も居ますが、音楽そのものの深さとしては、僕は晩年の演奏の方が遥かに優れていると思っています。ですので、僕にとっては名ピアニストの遺産としての価値に留まっています。
アルフレッド・コルトー(1955年録音/ARCHIPEL盤) 同じコルトーでも最晩年の演奏です。クレジットにはミュンヘンでのライブ録音と有ります。EMIにもスタジオ録音を2度行っていますし、コルトー得意のレパートリーだったのではないでしょうか。ですので、演奏に余り衰えを感じません。ミスタッチも少なめです。何と言っても、詩情の豊かさが抜群ですし、演奏の味わいの濃さと音楽の深みは圧倒的です。音質も明瞭ですので、コルトーの代表盤の一つに上げたいと思います。本当に素晴らしいショパンです。
サンソン・フランソワ(1959年録音/EMI盤) フランソワは好きなピアニストですし、特にドヴュッシーは絶品でした。ショパンに関しては以前は「クセがある」という否定的な評をよく見かけましたが、決してそんなことはありません。確かに伝統的でオーソドックスなショパンとは違うかもしれませんが、この人特有の閃きで音楽の持つ魅力を掘り起こして行きます。大げさに見栄を切ったりしませんが、至る所のニュアンスの変化が本当に洒落ています。EMIの録音は余りパリッとせずに、年代を考慮しても優秀とは言い難いのはやや残念です。
マウリツィオ・ポリーニ(1974年録音/グラモフォン盤) ポリーニに一番適しているのは「練習曲集」だと思います。感情に溺れず、どの曲でもカッチリと演奏するスタイルは「前奏曲」の場合には、幾らか面白みに欠ける気がします。そうは言っても、決して情緒に欠けているわけではありませんし、これだけ曲そのものを大げさにならずに端正に聞かせることの出来るピアニストは、すぐに思いつきません。やはりこれも、ポリーニの残した名盤だと言って構わないと思います。
マルタ・アルゲリッチ(1977年録音/グラモフォン盤) どの曲でも彼女にしては、あっさりと一筆書きのように弾いているので、後年の味の濃い演奏が好きな人には、物足りないと思います。でも僕は結構気に入っています。頭で余り余計な事を考えずに、感性だけで弾いているのが好きなのですね。それでもピアノタッチは冴えていますし、ニュアンスが豊かで情緒を一杯に感じられるのが素晴らしいです。なお、第16曲プレスト・コン・フォートでは超快速で何と1分を切っています。キーシンでもジャスト1分ですので、恐らく彼女が最速なのではないでしょうか。
イーヴォ・ポゴレリチ(1989年録音/グラモフォン盤) ポゴレリチの魅力全開のユニークな演奏です。特徴は緩徐曲の非常な遅さであり、どこまでも深く沈みこむようです。しかしそこに演出臭さやあざとさが感じられることはありません。これはやはりポゴレリチの心から生まれた音楽表現だからに他なりません。急速な楽章についても速さで押切るようなことはなく、むしろじっくりと聴かせる印象を受けます。これは決して奇異な演奏でもなんでもなく、それはまるで熟達の巨匠の手によるかのような恐ろしく深みのある演奏です。
スタニスラフ・ブーニン(1990年録音/EMI盤) 豊かな表現力と安定したテクニックで、どの曲もじっくりと仕上げられています。そしてショパンのロマンティシズムがたっぷりと感じられるのが大きな魅力です。ここにはハッとさせるような奇抜さやスリル感こそ余り有りませんが、音楽に真摯に向き合う姿は大変好感の持てるものです。落ち着いてプレリュード集を聴きたいときには最適な演奏だと思います。
グリゴリー・ソコロフ(1990年録音/NAIVE盤) 素晴らしく聴きごたえのある演奏です。短い一曲一曲を遅めのテンポとルバートで表情豊かに奏でます。弱音のデリカシーには胸を打たれますし、強音の力強さと迫力にも圧倒される思いです。これだけ譜読みの深さと表現力を持つピアニストは余り思い当たりません。しかも、上手いピアニストに往々に感じる「あざとさ」とはまるで無縁なのも凄いです。全体を通して聴いて、この作品がこれほど偉大で巨大に感じられたのは初めてです。この人の「葬送ソナタ」では、完成度が僅かに不足しているかなと感じましたが、「前奏曲集」には、文句の付けようが有りません。
ニキタ・マガロフ(1991年録音/DENON盤) マガロフが80歳で亡くなる前年のライブです。会場は東京の江戸川文化センターです。いかにも大家の晩年らしく、全体的におおらかでゆったりと構えた印象です。奇をてらった表現は無く、若い演奏家のような挑戦的、刺激的な演奏とは、まるでかけ離れています。ピアノタッチが美しく、端正な音ですが美しいです。フォルテの打鍵は、力みのない伸びのある音で快感です。
ウラージミル・アシュケナージ(1992年録音/DECCA盤) いかにもこの人らしいクセの全く感じられない演奏です。優等生的とも言えるでしょうし、音大生がお手本にするにはうってつけだと思います。といって無味乾燥なわけでも無いですし、とても美しく聴かせてくれます。けれどもそこにはハッとするようなスリリングな緊張感は有りません。このピアノの詩人の最高傑作がこのように聞かされて良いものだろうかと考えると聴き終わった後にはやはり物足りなさが残ってしまうのです。
シプリアン・カツァリス(1992年録音/SONY盤) テルデックからソニーに移籍して2枚目のディスクですので正に絶頂期の録音です。とにかく余りあるテクニックを使ってどんな風にも弾けてしまうという印象です。普通は目立たない多くの伴奏音型が新しい命を与えられたかのように自己主張しています。聴いていて面白いことこの上ありません。但しこの演奏はショパンの語りには感じられず、演奏者カツァリスがどうしても前面に現れてしまいます。そこが好悪の大きな分かれ道だと思います。
エフゲニ・キーシン(1999年録音/RCA盤) テクニックは完璧、ピアニスティックな意味では最高レベルだと思います。音の粒だちや、リズムには曖昧な部分が少しも有りません。但し、僕はそこに逆に窮屈な印象を受けてしまうのですね。あくまでも好き嫌いの問題です。第16曲プレスト・コン・フォートはジャスト1分。アルゲリッチが暴走気味に聞こえるのに、キーシンはきっちり制御されている印象です。それでも速やっ!
ラファル・ブレハッチ(2007年録音/グラモフォン盤) ショパンの祖国ポーランドから生まれた新世代の名ピアニストも目を見張るテクニックで全曲を弾き上げます。これはキーシンとも共通するのですが、一音一音が余りに明晰な為に逆に聴いていて窮屈な印象を与えてしまい、音楽に浸リ切って酔うことが出来ません。それは何もピアニストに限らず現代の演奏家に共通した不満かもしれません。しかし音楽は実に立派ですし、緊張感あふれる音はやはり凄いと思います。聴きごたえは充分過ぎます!
ということで、僕にとってはアルフレッド・コルトーの1955年録音盤とグリゴリー・ソコロフ盤、それにイーヴォ・ポゴレリチ盤の三つが群を抜いています。更に次点を選ぶとすれば、アルゲリッチ盤に惹かれます。
本当は、どうしても聴いてみたかったのがホロヴィッツです。しかし、残念なことに録音を残してはくれませんでした。今後の録音に期待しているのは、ルイサダとツィマーマンです。
<補足>後からブーニン、アシュケナージ、カツァリス、ブレハッチを追加しました。
最近のコメント