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2012年3月10日 (土)

J.S.バッハ 「ヨハネ受難曲」BWV245 名盤

Saint_nikolaus
ライプチッヒの聖ニコライ教会

バッハは「受難曲」を生涯に4曲か5曲書いたとも言われていますが、正確なことは分かっておらず、楽譜が残されているのは、マタイ福音書からの「マタイ受難曲」とヨハネ福音書からの「ヨハネ受難曲」の二つだけです。マタイ受難曲はライプチッヒの聖トーマス教会で初演されましたが、ヨハネ受難曲は同じライプチッヒでも、聖ニコライ教会で初演されたと伝えられています。それはマタイの初演の3年前の聖金曜日です。

二つの受難曲は、どちらも傑作中の傑作ですが、一般的に人気の高いのは「マタイ受難曲」のほうなので、バッハのファンといえども、「マタイ」は聴いても「ヨハネ」は聴かない、という人も居るようです。どちらも、ユダの裏切りから、イエスの裁判、処刑、埋葬までの話を元にしたオラトリオ風の受難曲ですが、内容は幾らか異なります。「マタイ」は、受難を悲劇として捉えていて、哀しみに溢れたアリアを多く含んでいます。それに対して「ヨハネ」は、受難そのものを神の愛の成就と捉えているので、マタイよりもずっと光を多く感じる作品です。二曲の違いを象徴しているのは第1曲で、「マタイ」が暗く静かに開始されるのに対して、「ヨハネ」はずっと動的であり切迫感を感じます。それはまた、イエスがゴルゴダの丘で十字架にかかることの表現の違いでもあります。「マタイ」でのイエスの最後の言葉が「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」に対して、「ヨハネ」では、それが「こと果たされぬ」となります。この言葉からも、処刑をよりポジティヴに捉えていることが分かります。

全体の曲想も、「マタイ」が暗く重苦しいのに比べると、「ヨハネ」のほうは、もっと明るさを感じます。作品の規模としては、「マタイ」は通常、演奏時間が3時間にも及びますが、「ヨハネ」はおよそ2時間です。最大の聴きどころは、まず第1曲「主、われらを統べ治める君よ」で、悲劇的かつ雄大な合唱曲です。それに最後の合唱曲「憩え、安らけく」とコラール「ああ主よ、汝の御使いに命じ」です。この曲を通して聴くのが長いと感じられる方は、まずこの最初と最後をじっくり聴かれると良いと思います。特に終曲は「マタイ」の終曲と比べても全く遜色無いと思います。他にも、第一部の最後、第13曲のテノールのアリア「ああ、我が念いよ」や、第二部では第20曲の、やはりテノールのアリア「心して思いはかれ」、第24曲のバスのアリアと合唱「急げや、悩める魂よ」などのドラマティックなアリアが多いことでは「マタイ」をむしろ上回るかもしれません。

「マタイ」と「ヨハネ」のどちらが優れているかという比較を、どうしてもしたくなるでしょうが、それは余り考えて欲しくありません。正直に言えば、やはり「マタイ」ということにはなるのでしょうが、これほど偉大な二つの受難曲を、そんな風に優劣で語るのは、馬鹿馬鹿しいことだと思うのです。

それでは、僕が愛聴している演奏のご紹介です。

41hbymsjewl__sl500_aa300_ ハンス・ヨアヒム・ロッチェ指揮聖トーマス教会合唱団/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(1975年録音/キングレコード盤) 元は旧東ドイツのシャルプラッテンの録音ですが、キングレコードが数年前にハイパー・リマスター化して、アナログ的な素晴らしい音質を蘇らせました。ロッチェのバッハはかつて東京で「マタイ」の実演を聴いていますが、それは本当に感動的な演奏で、今でも自分の心の宝になっています。前任のマウエルスベルガーからトーマス・カントールを引き継いだロッチェの時代は伝統的で保守的なバッハ解釈の最高到達点だったような気がします。次のビラーは、かなり(トーマス・カントールとしては)革新的なので、ピリオド奏法を取り入れて変化させてゆきます。とにかく、この聖トーマス教会の少年合唱団の素晴らしさといったら言葉になりません。大人が少人数で歌う現代の洗練されたバッハも悪くは有りませんが、目を閉じて聴いていて、本当に教会の中に居るかのような雰囲気になる点ではこの録音がベストです。僕は実際にドイツの大聖堂で礼拝に参加したことが有ります(ただし信者ではありません)が、あの時の讃美歌の敬虔な雰囲気がそのままに感じられます。独唱陣もシュライヤー、アダム、オジェーといった素晴らしい歌手が揃っています。ゲヴァントハウス管弦楽団は現代楽器を使用していますが、派手さの無い古雅な響きは実に魅力的なうえに、表現の巾では古楽器を上回ります。例えば第一部最後のテノールのアリア「ああ、我が念いよ」での重厚な音による凄みには圧倒されます。ロッチェはカンタータにも多くの録音を残しましたが、この「ヨハネ」こそが最大の遺産だと思います。出来れば是非、このハイパー・マスタリング盤でお聴きになられてください。「マタイ」に比べて「ヨハネ」は物足りないと思われている方にこそお勧めします。

Remin_bc ギュンター・ラミン指揮聖トーマス教会合唱団/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(1954年録音/Berlin Classics盤) ラミンは第二次世界大戦中にトーマス・カントールに就きましたが、無事に戦後まで務め果たしました。カール・リヒターの師としても知られています。録音は非常に少ないのですが、最も条件の整ったものとして、この「ヨハネ」が代表盤に挙げられます。後継者のマウエルスベルガーやロッチェと比べると、テンポがかなり遅めで、ロマンティックな解釈です。リヒターのバッハ演奏の原点がここに有ることが分かります。トーマス教会の合唱も、良く言えば非常に素朴、悪く言えばかなり粗さが目立ちます。ただ、それも大海のような音楽の前では些細な傷ですし、気にもなりません。第1曲から、その巨大な演奏に圧倒されてしまいます。独唱者ではヘフリガーがエヴァンゲリストを若々しい声で非常にドラマティックに歌っています。この録音の2か月前に、フルトヴェングラー生涯最後の「第九」をルツェルンで歌ったことも影響しているのではないか、などと考えてしまいます。実際、あの第九でのテノール独唱は最高でしたから。

Richter_johhannes カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ合唱団/管弦楽団(1964年録音/アルヒーフ盤) リヒターはライプチッヒ時代の師であるラミンが亡くなった時に、トーマス・カントールの後継者の要請を受けました。けれども、彼は既にスタートをさせていたミュンヘンでの音楽活動から離れようとはしませんでした。地位や名声よりも、人間愛や心を大切にしたからだろうと思います。自らが育て上げたミュンヘン・バッハ合唱団の合唱は、あの「マタイ」での感動的な歌唱と変わりません。アマチュア団体らしい僅かな粗さは有っても、逆にその真摯な歌声にはプロの団体では味わえない良さを感じるからです。もちろん好みの問題ですが、僕は上手いだけのプロ合唱よりも、むしろアマチュアの合唱が好きです。そのアマチュア・コーラスの究極の姿がここに有ると思います。最後の合唱曲「憩え、安らけく」での感動的な合唱が典型です。独唱陣も、エヴァンゲリストのヘフリガーを始めとして、プライやテッパーなどの素晴らしい歌手が揃っています。

Cd_bwv245 シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プテット・バンド/合唱団(1987年録音/DHM盤) クイケンというとバロック・ヴァイオリンというイメージですが、僕は案外指揮者としてのこの人が好きです。モーツァルトのミサ曲なんかにも良い演奏が有ったと思います。レオンハルトと比べると、ちょっと大人し過ぎかなとも思いますが、逆にこの静かなたたずまいの「ヨハネ」も意外に良いと思います。この曲にドラマティックさを求める人には向かないと思いますが、なんとなくグレゴリア聖歌を想わせるような静寂さがユニークです。一人静かに部屋で聴くには良いのではないでしょうか。全体に古楽派にしては、さほど速過ぎないテンポも気に入っています。器楽の扱いの上手さも、さすがはヴァイオリンの名手です。独唱陣では、プレガルティエンのエヴァンゲリストが非常な美声で魅了します。

Johns_passion_5 アンドリュ―・パロット指揮タヴァナー・コンソート&プレイヤーズ(1990年録音/EMI盤) 1パート1人を基本とした編成を取っているのは、リフキンの学説スタイルですが、驚くほど精妙な重唱(合唱ではありません)を楽しめます。その美しさと上手さは唖然とするほどですが、この演奏は感心はするけれど、感動するかというと、また別の問題です。感心して聞いているうちに、なんだか「受難曲」を聴くと言うよりも、美しいBGMを聴いている気になります。昔居た、スウィンガル・シンガーズ、あれみたいなのです。古楽器派は精神性が乏しいという偏見(?それとも事実?)はこういう演奏から生まれてしまうのではないでしょうか。

以上の演奏の中では、何と言ってもロッチェ/トーマス教会合唱団/ゲヴァントハウス管の素晴らしさに尽きます。リヒター・ファン、古楽器ファンの方にこそ、是非とも聴いて頂きたいと思います。

もちろん、リヒター盤は非常に感動的で大切な存在ですし、ラミン盤、クイケン盤も、それぞれとても好んでいます。

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コメント

ハルくんさん、こんにちは。バッハが続きますが、どの作品も素晴らしく、感動的ですね。私は「ヨハネ」も大好きです。特に、最後の2曲!空一面を覆う暗雲の一部が割れて ひとすじの光が射し込んで来るようです。ここだけは 「マタイ」 を 超えているな などと思ってたりします。(笑) CDは リヒター盤、ロッチュ盤、コープマン盤を持っていますが 聴くのはリヒター盤が圧倒的に多いですね。

投稿: ヨシツグカ | 2012年3月10日 (土) 13時56分

ヨシツグカさん、こんばんは。

元々、今年はバッハを聴き込もうと思っていましたが、聖トーマス教会合唱団を聴いて以来、すっかりバッハづけになっています。

「ヨハネ」素晴らしいですよね。
最後の2曲を聴いているときには本当に「マタイ」以上かなぁ、なんて思ったりします。
でも「マタイ」を聴いているときには、やはりそう思うのですけどね。(笑)

リヒターは本当に素晴らしいと思いますが、それ以上に好きなのは、ロッチェです。新リマスタリングで聴くと素晴らしさも倍増です。

投稿: ハルくん | 2012年3月10日 (土) 22時21分

こんにちは。さすがにヨハネのほうは聴き込んでいない上に楽譜も見ていないので詳しいコメントはできませんが、バッハが聖書を熟読していたことは確かなので、こんな印象をもっています。
新約聖書には4つの福音書があり(他にもあるという説はここではさておき)どれもイエスの誕生前後から受難と復活までのことを記していますが、それぞれに特徴があります。その中で、ヨハネに比べれば他の3つは比較的似た観点で書かれている、と言われます。
ヨハネの特徴は、事実を述べているうちいつのまにか筆者ヨハネ自身のコメントや解説になってしまうところです。ですから、テナーが歌う福音記者が単なるナレーターに終わらず、ヨハネ自身の人格が顔を見せているように感じられます。ヨハネ自身の言葉で「すべてを照らすまことの光」が世に来たのは「キリストを信じるすべての人が救われるため」であり、その使命は十字架上の受難によって「成就した」と書かれていることを、バッハは意識して音楽にしたのかな、というのが私の想像です。

投稿: かげっち | 2012年3月14日 (水) 12時46分

かげっちさん、こんばんは。

僕も聖書を読んだこと(読もうとした?)は有りますが、非常に浅い理解でしかありません。
なるほど、ヨハネ伝の特徴にはそのようなことが有るのですね。
「マタイ」と「ヨハネ」の受難曲が、どうして性格的に異なるのか、その理由が理解できたように思います。
どうもありがとうございました。

投稿: ハルくん | 2012年3月14日 (水) 23時27分

ハルくんさん、こんにちは。

ヨハネ受難曲では、私も最後の2曲、とくに最終コラールが好きです。

ヨシツグカさんがおっしゃるように暗雲の一部が割れて一筋の光が差し込んでくるような、心のなかに静かに希望が広がるような音楽だなあと思います。

わたくしごとですが、昨年はとても悲しい出来事が重なり、長い間 音楽から遠ざかっておりました。ようやく音楽を聴けるようになって来た頃に、ヨハネ受難曲の最終コラールを繰り返し聴いていました。

この冬亡くなられたグスタフ・レオンハルトさんのご葬儀の最後に演奏されたのは、この最終コラールだったそうです。

ハルくんさんが、こちらで紹介されている録音も、すこしずつ聴いていきたいと思います。

投稿: ANNA | 2012年4月 2日 (月) 11時07分

ANNAさん、こんにちは。

先日に続いてコメントを頂きまして、とても嬉しく思います。

この曲は最後のコラールで救われた気持ちになりますね。「マタイ」の最後は感動的ですが、差し込む光が薄く曲を閉じるので、ちょっと辛さが有ります。
それにしても「ヨハネ」は本当に素晴らしいですね。

ここにご紹介したのはもちろん自分の愛聴盤ですが、聴いていない録音はまだ沢山あります。他に良いものが有りましたら逆に教えて頂きたいと思います。

レオンハルトさんが亡くなられたのは非常に残念でしたね。

投稿: ハルくん | 2012年4月 2日 (月) 23時29分

こんにちは、お久しぶりです。
昨年4月のドイツレクイエムでは、ご来場&勿体無いほど高いご評価をいただき、ありがとうございました。
ほぼ1年前の記事への書き込みになってしまい、申し訳ありません。
今度うちの合唱団で「ヨハネ」をやるので、勉強しなくてはと検索して、またしてもハルくんさんのサイトを発見し、お邪魔しております。

それにしても本当に凄いですね、色々な曲の色々な盤を聞き込んでいらっしゃる。。(お仕事なのでしょうか??)
本当にお好きなのだと感じさせられ、またそんな曲を演奏できるありがたさを実感しております。
時々練習中に感極まって歌えなくなったりもしますが(特に39・40)、本番に向けて頑張って練習しなければと思いました。

自分は節約生活であまり買わない性質なので、レビューを参考にさせていただいて図書館にあるというカール・リヒター盤を借りることにしました。
まだ聴いていないのですが、今からわくわくしています。

演奏会も、もしよろしければまたおいでください。
6月8日(土)に、震災で壊れて直った(新)ミューザ川崎で行います。
詳細はお手数ですがHPをご確認下さい(宣伝申し訳ありません)。

そして改めて思ったこと。
ハルさんのサイト、うちのリンクに入れてもよろしいでしょうか?
こちらが個人サイトではないので団員に相談しなければなのですが、どの盤を聴けば良いか(どれも素晴しいとは思うのですが)、団員にも非常に参考になると思うのです。
もしよろしければ、リンク貼らせていただきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

投稿: lin2 | 2013年2月 4日 (月) 11時24分

lin2さん、こんにちは。

こちらこそご無沙汰しました。久しぶりにコメントを頂いて大変嬉しく思います。

「ドイツレクイエム」のコンサートはとても楽しませて貰いました。こちらこそ有難うございました。
次は「ヨハネ受難曲」という予告が有りましたので、是非行きたいと思っていました。つい先日も思い出して、お聞きしようかなぁと思っていたところです。ご練習段階から感極まってしまうというのが良く理解できる感動的な名曲ですからね。

ミューザ川崎にも何度となく行ったことが有りますので、被災したときは大変悲しく思いました。修復なったホールにも是非訪れたいです。

自分は全くのアマチュア音楽愛好家に過ぎませんが、記事を多くの方に読んで頂くことは嬉しいことですから、貴団のサイトにリンクを貼って頂くことは全く問題ありません。メンバーの方々と相談されて、差支えが無いという結論が出ましたら、どうぞリンクさせてください。
こちらでも、コンサートが近くなりましたら、またご紹介記事を書かせて頂きたいと思っています。

それでは、練習頑張ってください。

投稿: ハルくん | 2013年2月 4日 (月) 21時03分

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